山奥に帰省すると、どうしても避けられない道がある。
舗装が途切れ、雑草に覆われた坂道を下りきったところに、竹藪の中に埋もれるようにして建った古い待合所があるのだ。屋根は苔に覆われ、雨樋は途中で折れて水がしみ出している。ベンチの塗装は剥げ落ち、板には黒い染みが広がっている。誰も使わなくなって久しいことは一目でわかる。
しかし、そこで足が止まるのは、貼られたままの時刻表のせいだ。色褪せた紙に、いまだに「二十三時三分」と書かれている。私が子どもの頃からずっと変わらない数字だ。村の人間なら誰もが知っていた。だがそんな時間にバスが来たことなど一度もない。第一、路線そのものが二十年以上も前に廃止されているのだから。
私はそのバス停が嫌いだった。子どもの頃、祖父に連れられて通りかかった時も、胸の奥に重苦しいものが沈むようで、ベンチに腰を下ろす気になれなかった。祖父は「あそこには夜に近づくな」とだけ言ったが、理由は教えてくれなかった。
大学を出て都会で暮らし、そんな記憶も薄れていた。けれど祖父の法事で夏に帰省した夜、ふとした気まぐれでその道を歩いてしまった。月が出ていた。竹藪の葉がざわめき、湿った匂いが鼻を突いた。田舎の夜特有の虫の声が途切れると、耳鳴りのような沈黙が辺りを満たした。
坂を下りきると、待合所が月光に照らされていた。板壁は水を含んで光り、ベンチの上には紙片が置かれていた。近づいてみると、それは濡れた時刻表だった。印刷は滲み、かろうじて「二十三時三分」とだけ読めた。見覚えのない真新しい紙だった。
その瞬間、背筋を冷たいものが走った。どうして、誰がこんな場所に。腕時計を見ると、針は二十三時を指していた。残り三分。私は吸い寄せられるようにベンチに腰を下ろした。板の冷たさが背骨に伝わり、呼吸が浅くなった。
遠くから低い唸りのような音が聞こえてきた。最初は風かと思ったが、すぐにエンジン音だとわかった。胸の奥が一気にざわつく。こんな山奥の夜更けに車など走らないはずだ。
音は坂道を上るように近づいてくる。やがて、藪の向こうに二つの光が揺れた。ヘッドライトだった。やがて姿を現したのは、古びた路線バスだった。塗装は剥げ、窓には水滴が張り付いていた。錆びついたタイヤが石を弾きながら、ゆっくりと停留所の前に停まった。
エアブレーキの吐息のような音が響き、扉が開いた。中は暗い。それでも見えたのは、ずらりと並んだ人影だった。皆が前を向いて座っているのに、こちらに視線を寄せているような圧迫感があった。
踏み出そうとした足が固まった。乗客の顔が水に濡れた紙のように滲んでいたのだ。目も口も輪郭も曖昧で、薄い膜の下で揺れている。呼吸をするたびに、その顔の表面に波紋が広がるように見えた。
私が立ち尽くしていると、最前列の人物が手を上げた。骨ばった手が握っていたのは、時刻表の紙片だった。濡れた文字で「次は二十三時三分」とだけ書かれている。
指先から水滴が落ち、畳のような床に染みを広げた。誰かが小さく咳をした。その音が合図のように、乗客たちが一斉に頭をこちらに向けた。揺れる顔の群れが一斉に私を凝視した瞬間、背筋から冷気が這い上がった。
私は後ずさった。だがベンチの冷たさが腰を押し戻す。足は鉛のように重く、一歩も引けなかった。扉の向こうでは誰かが席を立った気配がした。影が揺れ、濡れた紙が床に落ちた音がした。
次の瞬間、ヘッドライトがふっと消えた。闇に沈んだ停留所に、私の荒い呼吸だけが残った。振り返ると、竹藪は静まり返り、虫の声さえ途絶えていた。
気がつくと、バスは消えていた。ベンチの上には古びた時刻表が貼られたまま。濡れた紙片は跡形もなく消えていた。
心臓が耳の奥で鳴り響く。私は足を引きずるようにして坂を駆け上がり、振り返らずに家へ戻った。
だがその夜、布団に入っても耳の奥でエンジン音が消えなかった。夢と現実の境が曖昧になり、瞼を閉じるたびに、濡れた顔が浮かんだ。
翌晩も、胸の奥にざわめきが残った。家の中にいても耳鳴りのような低い振動がつきまとい、ふと窓を開けると、遠くの山影からかすかなエンジン音が聞こえてきた。風が止んだはずなのに、竹藪の葉だけが揺れている。まるで私を誘うかのように。
我慢できずに外へ出た。足が勝手に坂道を下りていく。藪を抜けると、昨夜と同じ待合所があった。ベンチの上には、また濡れた紙片が置かれていた。にじんだ文字は変わらず「二十三時三分」。腕時計を見ると、ちょうど二十三時。
私は息を詰めてベンチに腰を下ろした。湿った木の冷たさが背中を伝い、汗が肌に張り付いた。やがて、遠くから光が近づいてきた。昨夜と同じ古びたバス。錆びた車体が軋み、停留所の前に止まった。
扉が開くと、昨夜と同じ濡れた顔の群れがそこにあった。誰も声を出さない。だが今夜は、最前列の人物が立ち上がり、私の方へ歩み寄ってきた。水滴を垂らしながら、差し出された紙片には「次は二十三時三分」とあった。
私はその手を見つめた。恐怖で動けないはずだったのに、不思議な安堵が胸に広がった。紙片を受け取った瞬間、乗客たちの滲んだ顔がいっせいに微笑んだように見えた。次の瞬間、視界が暗転した。
気づけば私はバスの座席に座っていた。窓の外には、竹藪と待合所が流れていく。膝の上には濡れた紙片が置かれていた。「次は二十三時三分」。指先から水が滴り、座席を濡らした。
周囲を見回すと、他の乗客たちは皆、同じように紙片を膝に乗せていた。揺れる車体の中で、誰も声を出さない。ただ、湿った呼吸の音だけが重なり合っていた。
やがてバスは停まった。扉が開き、外には同じ待合所があった。見慣れたベンチに、一人の若者が腰を下ろしていた。腕時計を見つめ、落ち着かない様子で足を揺らしている。
私は立ち上がった。紙片を握りしめ、彼の前へ歩み出た。手を差し出し、濡れた文字を見せる。若者が顔を上げる。その瞳の奥に、かつての自分が映っていた。
次は二十三時三分。