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中編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2025

事故の記憶 nc+

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湿気を含んだ生温かい風が、自動ドアが開くたびに居酒屋の店内に流れ込んでくる。

十一月にしては異様に暖かい夜だった。壁に貼られたラミネート加工のメニュー表が、エアコンの風で微かに震えている。テーブルの上には、食べ散らかされた唐揚げの皿や、水滴を垂らすビールジョッキが所狭しと並び、床は誰かが零した酒でべたついていた。靴下の裏にへばりつくような不快な感触が、今の私の気分と妙に同調していた。

高校の卒業から十年が経っていた。
「十年会」と称されたこの集まりには、当時仲の良かったグループの六人が顔を揃えていた。互いの近況報告や、当時の恋バナ、教師の悪口といった月並みな話題が一巡し、会話のエアポケットのような沈黙が落ちたときだった。
誰かが、あの事故の話を始めたのは。

「そういえばさ、三年の秋だっけ。校門の前で先生が死んだ事故、あったよな」

口火を切ったのは、向かいの席に座る本多だった。彼はジョッキに残った温くなったビールを煽ると、思い出したように眉をひそめた。
その話題が出た瞬間、座の空気が一瞬にして変質した。それまでの弛緩した同窓会の空気が、急にざらついた粒子を帯びたように感じる。

あの事故。
忘れるはずがない。私たちが通っていた県立高校の正門前、信号機のない横断歩道で、一人の教師が登校中の生徒の目の前で軽トラックに撥ねられた一件だ。
朝の八時二十分。遅刻ギリギリの時間帯だったため、そこには私を含め、多くの生徒がいた。

「あったな、そんなこと」
私は努めて平坦な声で応じた。「結構な騒ぎになったよな。目の前だったし」
「いや、騒ぎどころじゃなかっただろ」
本多が身を乗り出した。彼の顔は酒で赤らんでいたが、目は据わっていた。
「俺、一番前の列で見てたんだよ。凄かったぞ、あれ。軽トラのバンパーがぶつかった瞬間、先生の身体がくの字に折れてさ。で、そのまま五メートルくらい吹っ飛んだんだ。一番ヤバかったのは血だよ、血。頭からアスファルトに落ちたから、スイカ割ったみたいに中身が飛び散ってさ。俺の制服のズボンにまで飛沫が飛んできたんだから」

私は枝豆を口に運びながら、違和感を覚えた。
本多の話は、私の記憶と噛み合わない。
私もあの時、本多とほぼ同じ位置、校門の石柱の陰にいた。事故の一部始終を目撃している。
だが、私の記憶にある光景は、もっと乾いたものだった。

「おい、本多。話を盛るなよ」
私は苦笑混じりに指摘した。「そんなスプラッター映画みたいじゃなかっただろ。確かに音は凄かったけど、血なんてそんなに出てなかったぞ」
「は? お前こそ何言ってんだよ」
本多が不機嫌そうに唇を尖らせる。「辺り一面、血の海だったじゃねえか。雨の日でもないのに道路が真っ黒に濡れてて、鉄の臭いが充満してて……みんな悲鳴上げて逃げ出したろ」

「いや、違う」
私は明確に否定した。私の脳裏に焼き付いている映像は、あまりにも鮮明だったからだ。
「先生は撥ねられたあと、一度起き上がろうとしたんだよ。頭を打ってはいたけど、意識はあった。自分で手をついて、何か言おうとしてたんだ。すぐに救急車が来て運ばれていったけど、亡くなったのは病院に着いてからだろ? 現場で血の海なんて、そんな事実はなかった」

私の言葉に、本多は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
「お前、ボケてんのか? 起き上がるわけないだろ。即死だよ、即死」

 そのとき、隣で黙ってスマホを弄っていた佐藤が口を開いた。

「二人とも、何言ってんの?」
佐藤の声は低く、どこか怯えたような響きがあった。
「血の海でもないし、起き上がってもいないよ。先生、首が真後ろに回ってたじゃん」

私と本多は同時に佐藤を見た。
「は?」
「だから、首だよ。衝撃で頚椎がやられたのか、顔が背中の方を向いてたんだよ。人間ってあんな方向に顔が回るんだなって、俺、吐きそうになったもん。ピクリとも動かなかったし、血も出てなかった。ただ、人形みたいにねじれて落ちてただけだよ」

テーブルの上が静まり返った。
換気扇の回る低い音だけが、やけに大きく聞こえる。
三人それぞれが、全く異なる「死に様」を語っている。細部の認識違いというレベルではない。死因も、損傷の具合も、即死か否かさえも食い違っているのだ。

「お前ら、十年経って記憶がごちゃ混ぜになってるんじゃないか?」
奥の席にいた高橋が、呆れたように言った。「俺の記憶だと、そもそも軽トラじゃないぞ。乗用車だ。先生はボンネットに乗り上げて、そのままフロントガラスを突き破ったんだ。で、意識不明の重体で運ばれて、半年くらい植物状態が続いてから死んだんだよ。全校集会で黙祷したろ?」

背筋に冷たいものが走った。
高橋の言う「植物状態で半年後に死亡」という結末など、私は聞いたこともない。私の記憶では、事故の翌日のホームルームで担任が訃報を伝え、その日の午後は臨時休校になったはずだ。

私は焼酎のソーダ割りを一口飲んだ。炭酸の刺激が喉を焼くが、胸のざわつきは収まらない。
私たちは同じ場所で、同じ瞬間に、同じ人物の死を目撃したはずだ。
それなのに、なぜここまで記憶が乖離しているのか。

ふと、私は当時の自分の感情を思い出した。
事故を目撃した瞬間、私が抱いた感情。それは「恐怖」でも「悲しみ」でもなかった。
――ラッキー。これで一時間目の数学が潰れる。
不謹慎極まりないが、それが偽らざる本音だった。前夜、課題をやっていなかった私は、教師が宙を舞う光景を見ながら、安堵の息を吐いていたのだ。

「なあ」
私は恐る恐る尋ねた。「お前らさ、その事故を見たとき、どう思った?」
本多は少しバツが悪そうに視線を逸らし、唐揚げの最後の一つを箸でつついた。
「……正直言うと、今日は学校休みになるかなって、ちょっと思った」
佐藤も頷く。「俺も。体育のマラソン、嫌だったからさ。助かったって、一瞬思っちゃったんだよな」
高橋も無言で頷いた。

奇妙な共通点だった。
私たちは全員、人が死ぬ瞬間を見て、自分の都合の良い「猶予」が得られたことを喜んでいた。
その罪悪感のなさが、あるいは薄暗い安堵感が、記憶の改竄を引き起こしているのだろうか? いや、それにしても物理的な事実が食い違いすぎている。

「ていうかさ」
本多が奇妙なことに気づいたように言った。
「死んだ先生の名前、誰か覚えてるか?」

 その場にいた全員が顔を見合わせた。

名前。
喉元まで出かかっているような気もするし、最初から何も知らないような気もする。
担任ではなかった。それは確かだ。だが、毎朝校門に立って挨拶運動をしていた教師だ。名前を知らないはずがない。教科は? 担当部活は?

「……田中、とか?」本多が自信なさげに言う。
「いや、田中は現国の爺さんだろ。もっと若かったよ」と佐藤。
「理科の先生じゃなかったか? 白衣着てた記憶がある」と高橋。
「俺はジャージ姿だったと記憶してるけど……」

誰も、死んだ人間の名前を思い出せない。
それどころか、顔立ちさえも曖昧だった。眼鏡をかけていたか? 太っていたか、痩せていたか?
私が記憶しているのは「撥ねられて、起き上がろうとして私を見た男」という動作だけで、その顔のパーツを思い出そうとすると、まるで水に濡れた水彩画のようにぼやけてしまう。

「スマホで調べりゃわかるだろ」
佐藤が焦ったようにスマホを取り出し、指を走らせる。
『〇〇高校 教師 事故死 平成〇〇年』
検索ボタンを押す指が、微かに震えていた。

数秒の沈黙。
「……出ない」
佐藤の声が裏返った。「ニュース記事も、掲示板のログも、何一つ出てこない。うちの高校のウィキペディアも見みたけど、沿革に『教師死亡事故』なんて記述はない」

そんな馬鹿な。
あれだけの事故だ。地元の新聞には載ったはずだし、我々の記憶にこれほど強烈に刻まれている出来事が、記録として一切残っていないなどあり得ない。
店内の喧騒が遠のいていく。
隣の席のサラリーマンたちの笑い声が、どこか別の世界からのノイズのように響く。

「おい、やめようぜ」
本多が青ざめた顔で言った。「なんか、気持ち悪い。俺たちの勘違いだったんだよ、きっと。夢か何かを、みんなで共有しちゃってるだけで……」
「夢なわけあるかよ!」
私は声を荒げた。「俺は見たんだ。あのアスファルトの感触も、タイヤが擦れる音も、先生が俺を見たあの目も!」

その瞬間、私の脳裏でフラッシュバックが起きた。
記憶の中の、あのアスファルトの上の教師。
彼は、苦痛に歪んだ顔で身を起こし、私を直視した。
その口元が動いている。
音は聞こえない。だが、唇の動きははっきりと読み取れる。

――『    』

何を言った?
なぜ今まで忘れていた?
いや、忘れていたのではない。思い出さないようにしていたのだ。あの一言こそが、この記憶の核だったからだ。

「……待ってくれ」
私は額に浮いた脂汗を手の甲で拭った。
周りの友人たちの顔を見る。
本多は、赤いトマトジュースのカクテルを頼んでいた。グラスの縁から赤い液体が垂れ、おしぼりに染みを作っている。
佐藤は、肩が凝るのか、しきりに首を回してポキポキと音を鳴らしている。
高橋は、疲れ切った様子でテーブルに突っ伏し、死んだように動かない。

全身の毛穴が開くような悪寒が走った。
本多が見た記憶は「全身から血を流した死体」。
佐藤が見た記憶は「首がねじれた死体」。
高橋が見た記憶は「植物状態で動かない死体」。

彼らは、教師の死に様を語っていたのではない。
彼らは、無意識のうちに、自分自身の「未来の死相」あるいは「現在の在り様」を、あの日の空白の教師に投影していたのではないか?

だとすれば。
「意識があり、起き上がろうとして私を見た」という記憶を持つ私は?

 私は震える手で、自分のジョッキを掴んだ。

氷が溶けて薄まった液体が、胃の中でチャプチャプと音を立てる。

「なぁ、みんな」
私の声は酷く掠れていた。「もしかして、あの日死んだ先生なんて、最初からいなかったんじゃないか?」

三人が怪訝な顔で私を見る。
「どういうことだよ」
「俺たちが『ラッキー』だと思った、あの瞬間だ。俺たちのあの浅ましい安堵感が、何もない空間に『死身』を作り出したんじゃないか。だから、死に様がバラバラなんだ。俺たちはそれぞれの鏡を見ていたんだよ」

佐藤が気味悪そうに笑った。「お前、飲み過ぎだろ。オカルトかよ」
「じゃあ説明してくれよ! 本多、お前の目の前にある赤い染みは何だ? 佐藤、さっきから首を鳴らしてるのは何故だ? 高橋、お前はなんで死んだように動かないんだ!」

私は立ち上がった。椅子が床を擦って不快な音を立てる。
そうだ、確かめなければならない。
私の記憶の中の教師が、最後に何と言ったのか。
あの日、アスファルトの上で、彼は私を見ていたのではない。
私が、彼を見ていたのだ。
いや、違う。
視線が、逆だ。

記憶の中の映像が、急速に解像度を上げていく。
倒れている男。グレーのスーツ。飛んでしまった革靴。
男はゆっくりと顔を上げる。
その顔には、目も鼻も口もなかった。のっぺらぼうのような肉塊が、そこにあった。
だが、私には分かった。その肉塊が、私という存在を認識し、明確な意思を持って語りかけてきたことが。

男の顔の皮が裂け、口が形成される。
そして、彼は言ったのだ。

――『次は、お前の番だ』

と。

 ドンッ!

突然、爆発音のような衝撃が全身を貫いた。
視界が激しく明滅する。
居酒屋の風景が、ガラス細工のように砕け散った。
友人たちの顔が、メニュー表が、汚れた床が、一瞬にして遠ざかる。

次に私が感じたのは、硬く、冷たく、ざらついた感触だった。
頬が痛い。
目を開けると、そこは灰色の地面だった。
目の前数センチのところに、白い塗料の跡がある。横断歩道の白線だ。
鼻腔を満たすのは、居酒屋の油の臭いではない。
タイヤの焦げた臭いと、排気ガス、そしてアスファルトの埃っぽい臭いだ。

「うわっ、マジかよ!」
「先生が撥ねられた!」
「救急車! 誰か救急車!」

頭上から、ざわめく声が降ってくる。
高校生たちの声だ。聞き覚えのある声。若々しい、まだ何者でもない彼らの声。
私は体を起こそうとした。
体が重い。頭が割れるように痛い。
視界が赤い霧に覆われているが、何とか首を動かして、校門の方を見た。

そこには、数人の生徒が立っていた。
その中に、十年前の私がいた。
制服を着て、鞄を肩にかけ、呆然とこちらを見下ろしている私。
そして、その隣には本多が、佐藤が、高橋がいた。

彼らの表情は、恐怖に強張ってはいない。
微かに、口元が緩んでいる。
目が語っていた。
「ラッキー」と。
「これで授業が潰れる」と。

ああ、そうか。
理解した。
私は、教師ではなかった。いや、かつては生徒だった。
しかし、あの日の「安堵」という罪を償うために、私はこの役割に嵌め込まれたのだ。
あの居酒屋での十年会こそが、走馬灯のような長い夢だったのか。
それとも、あの安堵した瞬間に、私の魂はこちら側――「死ぬ役」へと弾き飛ばされたのか。

私は、目の前に立っている「高校生の私」と目が合った。
「私」は、冷ややかな目で、地面を這いつくばる私を見ている。
私は必死に手を伸ばし、何かを伝えようとした。
この無限の循環を断ち切るために。
警告しなければならない。お前も、いつかこうなるのだと。

私は裂けた唇を動かした。
音にはならなかったが、私の意思は形になったはずだ。

『次は、お前の番だ』

高校生の「私」は、何事もなかったかのように視線を逸らし、隣の本多に話しかけた。
「今の見た? なんか言ってたぜ、あの人」
「知らね。それよりさ、今日一限目自習決定じゃね? ラッキー」

意識が遠のいていく。
救急車のサイレンが、遠くから近づいてくる。
その音は、まるで私の人生の終了を告げるチャイムのように聞こえた。
私は薄れゆく意識の中で、次に目覚める場所が病院のベッドであることを祈った。
だが、心のどこかで分かっていた。
次に目が覚めたとき、私はまたあの居酒屋の席に座り、誰かが「あの事故の話」を始めるのを、濡れた靴下の不快感と共に待つのだということを。

[出典:501 :本当にあった怖い名無し:2020/09/07(月) 10:54:19.99 ID:APRMT7+J0.net]

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