あれは中学二年の秋だった。
教室に入るなり、女子の一人が笑いながら言った。
「ねぇ、A学院通ってるんだぁ」
聞き間違いだと思った。A学院は近所では一番有名な進学塾だ。だが俺の家にそんな余裕はない。成績は悪くなかったが、塾に通ったことなど一度もない。
「行ってねぇよ」
そう返すと、彼女は首を横に振った。
「昨日の夕方、出てくるとこ見たよ。こっち見て手ぇ振ってたじゃん」
その時間、俺は家でテレビを見ていた。母親に呼ばれて夕飯を食べた記憶もある。曖昧ではない。はっきりしている。
なのに、教室の空気が少しだけ変わった。
人違いだろ、で終わるはずだった。だが地元は狭い。同じ学区の顔はほぼ全員わかる。似ている誰かがいる、では済まない。
数週間後、新しくできた古本屋に友人と入った瞬間、店の奥から店主が飛び出してきた。
「よくまた来れたなッ!」
腕をつかまれ、事務所に引きずり込まれる。
「離せよ!」
怒鳴っても、店主は止まらない。
「オープン初日に万引きして逃げたの、お前だろうが!」
そんなはずはない。その日、俺は文化祭の準備で友人の家にいた。担任まで迎えに来た。記憶は鮮明だ。
やがて学校に連絡が入り、担任が来た。事情を説明し、「この子ではありません」と証言した。それでも店主は譲らない。
防犯カメラの映像を見せられた。
そこにいたのは、俺だった。
背格好も、歩き方も、棚に手を伸ばす癖も、すべて俺だった。
だが俺ではない。
画面の中の俺は、振り返る直前、ほんの一瞬だけ笑った。見覚えのない笑い方だった。
その頃から、知らないところで俺が何かをしているという話が増えた。
中三の冬、先輩から電話が来た。
「Kちゃんって子、知ってる?」
知らないと答えると、先輩は苛立った声で言った。
「最近アンタに連絡無視されて落ち込んでるって。先月、アンタにナンパされて、ヤッたって」
息が詰まった。
翌日、Kという女に会った。
初対面のはずなのに、彼女は俺の家族構成や好きな音楽、授業中の癖まで知っていた。俺が話したとしか思えない細かさだった。
「俺じゃない」
そう言っても、彼女は首を振った。
やがて俺たちは実際に会うようになった。彼女も次第に、もう一人の俺の存在を口にするようになった。
「あなた、時々違う顔するよね」
そう言われるたび、鏡を見る回数が増えた。
高一の夏、コンビニでバイトを始めた。
レジ横の「スタッフおすすめ!」のポップに、俺のプリクラを貼っていた。ある日、それだけが鋭く引っかかれ、顔の部分だけが何度も削られていた。
外して裏を見ると、爪で刻まれた文字があった。
『あのおんなはおれがさいしょだったろうが』
字は汚い。だが筆圧の癖が、自分に似ていた。
その直後、Kは言った。
「あなた達には関わりたくない」
あなた達。
俺は一人だと言いかけて、言葉を飲み込んだ。
それから、時々視線を感じるようになった。
商店街のガラス、電車の窓、夜の自販機の反射。
振り返ると誰もいない。
だが映り込んだ俺の背後に、ほんのわずかに肩幅の違う影が立っていることがある。
瞬きをすると消える。
笑っているように見えることがある。
最近になって気づいたことがある。
俺が「家にいた」と思っている日の記憶が、ところどころ薄い。
テレビの内容を思い出せない。夕飯の味も曖昧だ。
代わりに、見覚えのない路地や、知らない部屋の匂いが断片的に浮かぶ。
どちらが本物なのか、考えないようにしている。
ただ一つ確かなのは、俺は一人で生きてきたつもりだったということだ。
もし今、背後に気配を感じたなら、振り返る前に窓ガラスを見た方がいい。
そこに映っているのが、本当にお前だけかどうか。
[出典:616 :本当にあった怖い名無し:2006/10/06(金) 11:23:15 ID:a28WeXKa0]