タクシー運転手をやっていた頃、暇な時間によく乗客に話しかけていた。
天気のこと、景気のこと、近所の道路工事のこと。だいたいはその程度だ。相手が乗ってくれば話すし、返事が薄ければ黙ってハンドルを握る。ただ、ときどき気まぐれに「怖い話なんか、聞いたことありませんか?」と訊くことがあった。
そういう話が好きだった。
とはいえ、本当に変な話を聞かせてくれる人はほとんどいない。たいていは笑って終わる。「いやあ、ないねえ」「霊感とかないからさ」そんな返事ばかりだった。
その日も、最初はいつもと同じつもりだった。
駅前から乗ってきたのは、五十代くらいの男だった。行き先を告げる声が落ち着いていたので、こちらも自然と話しかけた。しばらく世間話をしているうち、彼も昔タクシー運転手をしていたことがわかった。
仮にAさんとしておく。
Aさんは運転手歴が三十年を越えていたらしい。夜勤も長く、酔客も事故現場も、ひと通り見てきたと言っていた。俺はそこで、いつもの調子で訊いた。
「じゃあ、怖い体験なんかもあったんじゃないですか?」
Aさんはすぐには答えなかった。
車内にはウインカーの音だけが鳴っていた。Aさんは窓の外を見ていた。顔は笑っているわけでも、怯えているわけでもない。ただ、思い出したくないものを、思い出せる場所まで手繰っているような沈黙だった。
やがて、低い声で言った。
「たった一度だけ、不思議なことがありましたね」
勤務先の車庫まで、Aさんは毎朝歩いて通っていたそうだ。
家から十五分ほどの距離だった。住宅街を抜け、細い道を二つ曲がり、古いアパートの横を通る。毎日同じ時間、同じ道を歩く。そうしていると、どの家の犬が吠えるか、どの家の雨戸がいつ開くかまで自然と覚える。
途中に、小さな平屋があった。
道に面したところに花壇があり、いつもきれいに手入れされていた。派手な花ではない。パンジーやマリーゴールド、名前のわからない白い小花。季節ごとに植え替えられていて、土も黒く、雑草もほとんどなかった。
ただ、Aさんはその家の住人を見たことがなかったという。
人の気配がないわけではない。雨の日には軒下に傘が干してあるし、窓の内側のレースカーテンが開いていることもある。なのに、花壇をいじっている人も、玄関から出入りする人も、一度も見た記憶がなかった。
ある朝、その花壇に見慣れないものが生えていた。
最初は、背の高い草だと思った。
茎が一本だけ、まっすぐ伸びていた。五十センチほどはあったらしい。太く、青臭い感じのする茎で、先端にはつぼみのようなものがついていた。花にしては丸すぎる。実にしては色が薄い。Aさんは珍しい品種でも植えたのだろうと思って、そのまま通り過ぎた。
その日の夜、仕事を終えて同じ道を帰った。
花壇の前を通ると、そのつぼみが少し大きくなっていた。朝よりも丸みを帯びていて、表面に細かな凹凸が浮いていた。街灯の下で見ると、植物というより、濡らした紙粘土を丸めたような質感だった。
気のせいだろう。
そう思った。
翌朝、またそこを通ると、もう気のせいでは済まなかった。
それは明らかに大きくなっていた。卵よりも大きく、子どもの握り拳くらいはあったという。表面は灰色がかった肌色で、ところどころに浅い皺が寄っていた。風が吹いても揺れない。茎だけが少ししなり、その先に重たそうな実がぶら下がっている。
Aさんは足を止めた。
見ているうちに、いやな感じがした。
腐っているわけではない。虫がたかっているわけでもない。ただ、その皺の入り方に、覚えがあった。目も鼻も口もないのに、何かの顔に見える。誰の顔かはわからない。けれど、知らない顔ではなかった。

その日、Aさんは勤務中も何度かその実のことを思い出した。
信号待ちの間、ミラーを見たとき。客を降ろしてドアを閉めたとき。ふと、あの肌色の丸いものが頭に浮かぶ。別に怖いと思ったわけではない。ただ、どうにも引っかかった。
三日目の朝。
実は手のひらほどの大きさになっていた。
もう丸くはなかった。少し縦に伸び、上のほうが痩せて、下のほうが垂れていた。表面には深い皺が増えていた。くぼみのようなものが二つあり、その下に鼻筋に見える盛り上がりがあった。さらに下には、横に引かれた短い裂け目のような線があった。
顔だった。
まだ完全な顔ではない。だが、人の顔に見える。しかも、老人でも子どもでもなく、中年の男の顔に見えた。
Aさんはその前で、しばらく立ち尽くした。
それが誰の顔なのか、喉元まで出かかっていた。古い知り合い。昔どこかで見た男。親しいわけではないが、確かに知っている。そういう顔だった。
その日の夜、家に帰ると、奥さんから一通のはがきを渡された。
中学時代の同級生の訃報だった。
名前を見た瞬間、Aさんは思い出した。
その男だった。
同じクラスになったことはある。だが、仲がよかったわけではない。卒業後に会ったこともない。年賀状を交わしたこともない。互いの人生に何の関わりも残していない相手だった。
それでも、顔だけは覚えていた。
翌日が通夜だった。
Aさんは迷ったが、結局行くことにした。縁が薄いとはいえ、訃報を受け取った以上、顔くらいは出しておこうと思ったらしい。式場には懐かしい顔がいくつかあった。みな歳を取り、名前と顔がすぐには結びつかない者もいた。
焼香の列に並んでいる間、Aさんは自分でも馬鹿げていると思いながら、棺の中を早く確認したかったと言った。
それで、順番が来た。
棺の中の顔を見た。
間違いなかった。
花壇に下がっていた実は、その男の顔だった。
ただし、棺の顔とそっくりだった、というだけではないらしい。Aさんが声を低めて言ったのは、こういうことだった。
「棺の中の顔より、花壇のほうが先に死んでいたんです」
俺は意味がわからず、聞き返した。
Aさんは少し首を振った。
「うまく言えないんですけどね。棺の顔は、まだ人の顔だったんです。でも花壇のあれは、もう人に見せるための顔じゃなかった。誰かが、その人だとわかるぎりぎりのところまで、土で作り直したみたいな顔だったんです」
葬儀が終わって数日後、Aさんはまたその道を通った。
本当は別の道を使うつもりだった。だが、長年の癖で、気づくといつもの角を曲がっていたという。例の平屋が見えてきた。花壇も見えた。
足が勝手に止まった。
花壇には何もなかった。
あの茎も、実も、根の跡もない。土はきれいに均されていた。ほかの花もなくなっていた。湿った黒い土だけが、長方形に敷かれている。まるで、そこだけ小さな墓地のようだった。
Aさんは花壇の前でしばらく立っていた。
すると、家の中でカーテンが少しだけ動いた。
誰かがいる。
そう思ったが、声をかけることはできなかった。自分が何を尋ねるつもりなのか、わからなかったからだ。
その日を境に、Aさんは通勤路を変えた。
十五分で済む道を、二十五分かけて歩くようになった。奥さんには、健康のためだと言った。車庫の同僚には、朝の散歩だと言った。
それから何年かして、仕事でたまたまその近くを走ることがあった。
Aさんは客を降ろした帰り、あの平屋の前を車で通った。花壇はまだあった。ただ、植えられていたのは何の変哲もない赤い花だった。家も普通に見えた。郵便受けには名前もあった。洗濯物も干してあった。
それで、ああ、もう大丈夫なのかもしれないと思った。
だが、信号待ちでふとサイドミラーを見ると、花壇の前にひとりの男が立っていた。
顔は見えなかった。こちらに背を向け、花壇を覗き込んでいた。近所の人か、通行人か。そんなところだろうと思った。
けれど、次の瞬間、Aさんは背中が冷たくなった。
その男の姿勢に見覚えがあった。
花壇を覗き込むときの自分と、まったく同じだった。
「その人に声をかければよかったのかもしれません」
Aさんは、そこで一度言葉を切った。
「でも、何を言えばいいんですかね。そこに何か見えますか、なんて訊けないでしょう。見えていたら嫌だし、見えていなかったらもっと嫌でしょう」
車内は静かだった。
俺は返事を探したが、何も言えなかった。
Aさんは穏やかな顔をしていた。だが、話し終えたあとも、窓の外から目を離さなかった。まるで、知らない家の小さな花壇を、今でも探しているように見えた。
やがて目的地に着いた。
料金を受け取り、ドアを開けた。Aさんは降りる前に、少しだけこちらを見た。
「運転手さんも、毎日同じ道を通るでしょう」
「まあ、そうですね」
「じゃあ、気をつけてください。見慣れた場所に、見慣れないものがあるときは」
そう言って、Aさんは降りた。
俺はしばらくその場に停まっていた。バックミラーを見ると、Aさんはもう歩道の人混みに紛れていた。どこへ行ったのか、すぐにわからなくなった。
その夜、車庫に戻って車内を掃除していると、後部座席の足元に少しだけ土が落ちていた。
客が靴につけて持ち込んだのだろう。
そう思って、ほうきで払った。
ただ、その土は妙に黒く、湿っていた。指でつまむと、花壇の土のような匂いがした。
翌朝、俺はいつものように家を出た。
車庫までの道に、花壇のある家は一軒だけある。
そこには前から、季節の花が植えられていた。何度も見ている。別に変な家ではない。住人の顔も知っている。何もおかしくない。
そのはずだった。
花壇の端に、一本だけ、見慣れない茎が立っていた。
まだ低かった。十センチにも満たない。先端には、小さな丸いものがついている。
俺は足を止めなかった。
見なかったことにして、そのまま歩いた。
今でも、その道は通っていない。
ただ、あの朝の小さな丸いものが、誰の顔になる途中だったのかだけは、ときどき考える。
考えたくないのに、思い出す。
そして一番嫌なのは、Aさんの顔を、俺がもうはっきり思い出せないことだ。
[345 :本当にあった怖い名無し:2022/01/26(水) 00:06:27.48 ID:icuE+6v90.net]