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短編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2025

水の舌、蛇の声、名のない呼び声 n+

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今でもあの夜の匂いを思い出すと、胸の奥がざわつく。

湿った石の匂い、ぬるい苔、雨を吸った杉皮。山の線が暗く膨らみ、谷から上がる風が舌の裏に金気を残した。私は調査の帰りに、村はずれの境の杭をまたいだところで立ち止まった。杭には古い布が結ばれていて、解けた端が風で小さく波打っていた。大学の授業で聞いた通りだ……山に入る前に断る言葉を、誰にも聞こえないように喉の奥で唱えた。くせになっている。笑うなら笑えばいい。けれど、あの夜だけは、それを怠らなかったことに救われた気がする。

谷の暗がりで、彼女が待っていた。名前は伏せる。喉に触れる声の出し方、水を含むような視線、足音を置かない歩き方。初めて会ったのは夏の終わりだった。村の集会所で郷土史の聞き取りをしていたら、祖母に付き添って来た彼女が控えめに手を挙げて、蛇向こう入りの話をしませんかと言った。彼女の祖母は、雨乞いの歌が歌える人だった。彼女はそれを撫でるみたいな声で口ずさみ、歌詞の途切れを指で探る仕草をした。爪がやわらかい。私は身を乗り出してメモを取った。胸骨の下で鼓動が波打ち、汗がひとつ背筋を滑り落ちる。彼女の煎れた番茶はぬるいのに、苦味が残った。

彼女と会う理由は増えた。資料の確認、写真の整理、音声のすり合わせ。あの山腹の家に招かれたのは秋の彼岸で、縁側に座ると、谷から霧が上がって来て足首にまとわりついた。祖母は穏やかに笑い、彼女は台所で器を洗っていた。水音が長く続く。私は祖母に昔話の型の違いを尋ね、祖母は「うちは女の方が来る話じゃ」と言った。狐じゃのうてな、と言いかけて、指を一本立てた。「蛇や。山の神の使い。嫁に来る。帰る。そういう順番があるんよ」

帰り際、彼女が廊下で私を呼び止めた。薄い白いシャツの袖が湿って腕に貼りつき、細い骨が影を作っていた。彼女は私の左手首を軽くつまみ、「また来て」と言った。体温で塩気が立つ。私は頷いた。骨の角が指腹に触れる……それが爪だったのかもしれないと気づいたのは、随分後だ。

冬が降りてきた。私は調査報告書の草稿を仕上げ、教授のコメントを反映しつつ、二人で山の言葉を書き起こした。彼女は漢字の選び方に敏感で、「蛇」と「巳」の線の違いを指でなぞった。紙が爪に引っかかる微かな音。彼女はふと視線を谷へ投げ、私に「向こう側は冷たい」と言った。向こう側、という言い方が耳に残った。私は笑って、寒いのが苦手だと返した。彼女は笑わなかった。喉の奥で、濁った音が一瞬鳴った。

山の社へ参る日、彼女は白い布を頭から巻いた。雪が細かく、光を吸い、足裏から冷えが上がる。社の屋根の端に、古い鈴がぶら下がっていて、握ると金属が手に張り付いた。彼女は私の肩を軽く押した。「境をまたぐ前、言葉を変えて」。私は頷き、唇の形を変え、音の高さを変えた。彼女は満足そうに目を細め、鈴を鳴らした。鈴は鳴らず、代わりに風が鳴った。

その夜、祖母が亡くなった。彼女は泣かなかった。台所の水道を細く開け、流れ続ける水の音の中で、祖母の手を拭いた。私は座敷に座って、襖の桟に爪先で触れた。乾いた木の匂い。彼女は黒い髪を後頭部で束ね、白い紐で結び、ゆっくり結び目を撫でた。指が二度、三度、結び目の輪をたどり、最後にほどくように止まる。私はその手を掴みかけて、やめた。祖母の呼気はもう動かなかったが、畳はまだ温かかった。

葬式のあと、彼女は私の部屋に来た。アパートの安い蛍光灯が、彼女の肌を乾いた紙のように見せた。私は躊躇いながら、引き出しから古い受話器を取り出した。祖父の家から持ち出した黒電話の受話器だけ。重さがある。耳と頬骨に押し当てるふりをして、私は聞いた。「結婚、しよう」受話器の口金が唇に触れ、冷たかった。彼女は机の上の受話器をじっと見て、それから私を見た。頷いた。頷いた回数は一度。喉元が上下した。私は息を吐き、受話器をそっと置いた。机が低い音で鳴り、私の胸も同じ高さで鳴った。

彼女はすぐに引っ越してきた。私は台所に釘を打って棚を増やし、彼女の布を干す場所を作った。洗濯物から湿った匂いが部屋に広がり、冬の端っこみたいな冷えが壁に残った。彼女は水をよく使った。朝は蛇口を長く開ける。夜、湯船に浸かるとき、必ず最初に右手首から入れる。私は癖だと思って真似をした。右手首から。水面に毛細血管の線が揺れ、私の皮膚はすぐに慣れた。彼女は湯の上で目を細め、下まぶたから滴が落ちる。私は、言葉を変える前の音を舌で探った。

春が来た。彼女は妊娠した。病院の白い光の下で、私はエコーの画面を覗き込んだ。灰色のざわめきの中に、小さく脈打つ点。彼女の指が私の肘の内側を撫でた。ここが柔らかい、と彼女は言った。私は笑い、肘を少し曲げた。看護師が淡々と説明し、私は頷き続けた。帰り道、彼女は無言で、谷の方角に目をやった。風が、舌の裏にあの金気を置いていった。

胎児は元気だった。元気以上だった。彼女は夜、寝ながら浅く舌打ちするような音を出した。私は背中を撫で、肩甲骨の間に指を置いた。皮膚が薄く湿っている。私は夢を見た。山の境の杭がずらりと並び、結ばれた布が一斉に濡れて重く垂れ、下で水が溜まっていく夢。足首が冷える。布に顔を近づけると、布は蛇の皮の手触りがして、端の糸が舌にくっついた。目が覚めると、彼女は台所で蛇口を開け、水を細く流していた。彼女は振り返らず、「もうすぐだね」と言った。指先が水に照らされて、薄い膜のように見えた。

出産の日、病院のガラス扉に風が当たって鳴った。彼女の手は熱く、指が強く絡んだ。私は何度も「大丈夫」と言い、彼女は短く息を吐いた。産声は意外に低く、湿っていた。子は小さく、目を閉じたまま口だけよく動かした。舌が覗く。看護師は器用に包み、彼女の胸に置いた。彼女は目を閉じ、唇の動きだけで歌をなぞった。雨乞いの歌。私は息を止めた。歌は言葉の形を保たず、喉の奥で、蛇腹を擦るように続いた。

それからの数日は、訪問と連絡の波だった。教授には淡々と知らせ、研究室の後輩からは絵文字だらけのメッセージが来た。受話器は机の上で黒い舟みたいに重く、時々、私は耳に当てるふりをして、無音の海を覗いた。彼女は子に水を飲ませた。白湯ではない。薄めの番茶でもない。透明な水を小さな匙で、少しずつ。私は注意した。助産師の言葉を真似た。彼女は頷いた。頷いた回数は一度。夜、彼女は蛇口を開け、流れる水に子の指を浸した。子の指は小さく、冷えに強かった。

夏が近づいた。谷は湿り、山の輪郭はやわらかく崩れた。私は境の杭の布を結び直した。布は安い木綿で、指の汗で色が濃くなった。帰り道、彼女からメッセージが来た。短い文。山の言葉で書かれていた。私は立ち止まり、舌でその音を裏返した。意味は曖昧だった。家に着くと、玄関に水の輪が二つ、重なっていた。彼女は庭にいて、子を抱いて立っていた。庭の土は黒く、草は濃い。彼女は私を見ず、谷を見た。「行こう」と彼女は言った。私は喉の奥で何かが動くのを感じた。受話器が机の上に残っている。黒い舟。私の舌は、山の音から野の音へ、うまく戻らない。

彼女は境の杭で立ち止まった。布を一枚、結び直した。結び目を撫で、輪を作り、最後にほどくように止めた。私は息を詰めた。子は静かで、目を閉じ、口だけ動かした。舌が覗く。彼女は私の手首を軽くつまんだ。「越えると、戻れないよ」と彼女は言った。私は頷いた。頷いた回数は一度。喉元が上下した。彼女は「言葉を変えて」と言った。私は唇の形を変え、音の高さを変えた。谷が近づく。冷えが膝まで上がる。私は一度だけ振り返った。誰もいない。黒い舟が机の上に浮かんでいる気がした。

境をまたいだ。空気の重みが変わった。耳の内側に圧がかかった。彼女は布をほどき、頭から外して、杭に掛けた。白い布が濡れて、重く垂れた。彼女は私を見た。目は細く、瞳は暗い水の色に沈んだ。「ここからは、そっちの言葉で」と彼女は言った。私は頷いた。舌の裏に金気が戻る。子が小さく舌を鳴らした。彼女は足音を置かずに歩き出した。私はついていく。足首に水がまとわりつく。木の根が滑る。私は彼女の手首を掴んだ。細い骨の角が指腹に触れる……それが爪だった。

その夜、谷の底で、彼女は私に約束を言った。「見てはならないものを見ないこと。名を呼ばないこと。水の音を止めないこと」私は頷いた。頷いた回数は一度。私は見ない。名を呼ばない。水を止めない。彼女は笑い、喉の奥で濁った音をひとつ鳴らした。

私は規則を守った。守ったつもりだった。子が泣いた夜、私は水の音を少しだけ弱めた。眠気で指が滑り、蛇口が一瞬止まった。谷の空気が凍り、耳の内側の圧が変わる。彼女は私を見た。細い目の奥が、暗い水の色から冷たい石の色に変わった。彼女は子を抱き、布で包んだ。私は慌てて蛇口をひねった。水は戻る。音は戻る。けれど、彼女の目の色は戻らない。彼女は軽く頷いた。頷いた回数は一度。「帰るね」と彼女は言った。私は喉の奥で音を作れない。呼吸だけが出入りする。彼女は境へ向かい、杭の布を撫で、輪を作り、ほどいた。白い布が濡れて重く垂れた。子は静かで、口だけ動いた。舌が覗く。

私は追った。足首に水がまとわりつく。木の根が滑る。喉が焼け、水を飲んでも渇きは消えない。境の杭はずらりと並び、布が一斉に濡れて垂れ、下で水が溜まっていく。私の夢と同じだ。私はいちばん手前の杭で立ち止まった。喉の奥で音を捜す。山の言葉。野の言葉。舌はどちらにも届かない。彼女は振り返らない。布が風で小さく波打つ。私は受話器を思い出した。黒い舟。耳を当てるふりをして、無音の海を覗くふりをした。私は空気に耳を当て、唇を口金の形にした。「帰って」と言うつもりが、別の音になった。彼女が立ち止まった。ほんの一瞬。私はその一瞬を掴もうとして、足を出した。

境をまたいだ瞬間、耳の内側の圧が砕け、舌の裏の金気が溶けて喉に広がった。私は膝をつき、両手をついた。土は冷たく、ぬるく、指の間から水が上がってくる。彼女は近づいてきて、私の後頭部に手を置いた。指が二度、三度、結び目の輪をたどり、最後にほどくように止まる。私は顔を上げた。彼女の目は暗い水の色に沈み、そこに私の姿が揺れていた。細長い。白い。濡れている。私は息を飲んだ。喉が鳴った。蛇腹を擦る音がした。

私は気づいた。私は向こう側の言葉でしか、もう呼べない。私が越えたのではない。ずっと前から、私の舌の形は向こう側のものだった。彼女は微笑んだ。子が舌を鳴らした。彼女は子を私に差し出した。重い。温かい。私は抱いた。腕の内側が柔らかい、と彼女が言う。私は頷いた。頷いた回数は一度。谷の底で、水の音が絶えない。私は受話器を探した。黒い舟は、こちら側では鈴に似た形でぶら下がっている。握ると、金属が手に張り付く。私は耳に当てるふりをして、無音の海を覗くふりをした。そこには声があった。私の声だ。向こう側の言葉で、私の名を呼ぶ声。私は目を閉じ、呼ばれた名を忘れた。

朝、境の杭で白い布がひとつ増えていた。濡れて、重く垂れ、端の糸が舌にくっつく。村の者が見上げ、指を一本立てて笑う。「うちは女の方が来る話じゃ」と。私は頷いた。頷いた回数は一度。風が吹き、布が小さく波打つ。私は布の結び目を撫で、輪を作り、ほどいた。規則は守られた。私はここで、水の音を止めない。向こう側から来る誰かが、また布を結びに来るだろう。そのとき私は、境の手前で、受話器をそっと耳に当てるふりをする。無音の海の底で、私の声が、こちら側の言葉で、私の名を呼ぶ練習をしている。

(了)

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