二十代前半。地方の小さな営業所で黙々と事務をやっていた頃、私は決まって年に一度、平日をそっと切り抜いてひとりで遠くへ向かった。
有休の紙を総務のデスクに置く瞬間の、あの胸の底の少しだけ冷たい自由が好きだった。
早朝の東北自動車道は、夜を引きずったような青灰色に沈んでいた。
連休前ではない静かな平日で、空気は軽く湿っていて、グローブボックスの中に入れていたミントガムの匂いがわずかに広がっていた。
アクセルにかけた右足の甲が、エンジンの微かな震えと同じリズムで揺れている。
眠気はなかったが、胸の奥にだけ薄い膜のような不安が張り付き、ラジオをつけても音が遠く聞こえた。
事故渋滞に突っ込んだのは、まだ太陽が低い位置にある頃だった。
赤いブレーキランプが一斉に光り、ゆっくりと車列が止まる。
窓を少しだけ開けると、冷えた排気の匂いが頬に触れ、私は軽く咳を飲み込んだ。
時間を潰すようにルームミラーを覗くと、後方の車列に、くすんだ銀のワゴン車が二台後ろに見えた。
その運転席の影が、じっとこちらを向いている気がして、私は一度まばたきをした。
ほんの気のせい……のはずだった。
だがミラーの奥にあるその顔の輪郭が、勤務先の、少し癖のある男の横顔と重なった。
湿った癖毛が前に垂れ、光に当たって――嫌な記憶の温度に近い色をしていた。
渋滞の向こうで誰かのクラクションが短く響いた。
私はシフトレバーにそっと手を置き、進み始めた車列の流れに合わせる。
それなのに、ミラーの奥のその車は、私との距離をぴたりと変えずについてくる。
アクセルを踏む強さを変えても、同じ間隔のまま、影が揺れずに並走していた。
胸の奥が少しだけざわつき、背筋に汗がじわりと滲む。
旅の始まりにしては湿度が高すぎる。
私は窓を閉め、エアコンの風量を一段上げた。
車内の温度は下がったのに、指先だけは妙に熱かった。
渋滞が解けてしばらく走るうちに、胸の奥で小さな泡が弾け続けているような感覚が強くなった。
旅に出る朝の高揚とは違う。
もっと、皮膚の裏側だけがざわつくような、落ち着きの居場所を失った感触だった。
ハンドルを握る手のひらがじっとりと湿り、ステアリングの革が吸い込むように熱を持つ。
さっきミラーに映った影は、同僚の男に似ていただけ。
そう自分に言い聞かせるため、わざと大きめに肩を回したが、首筋に張り付く汗は離れてくれなかった。
呼吸が浅くなると、車内のミントガムの匂いが逆に重たく感じられ、鼻の奥でひどく甘ったるく膨らむ。
ラジオのパーソナリティが笑って何かを話しているのに、その声だけ遠のき、単なる雑音のように耳を滑った。
SAの入口の案内板が見えたとき、私は無意識にウインカーを出していた。
休憩したいというより、ただあの距離感から逃れたかった。
ハンドルを切る時、右肘が少し震えていた。
視界の隅に、例の銀のワゴン車が同じ速度で近づいてくるのが映り、呼吸が喉のあたりで引っ掛かった。
バックミラー越しに目を細めて見ると、その車もSAへ入るレーンに体を寄せていた。
嫌な鼓動が、背中のほうから押し上げてくる。
私はなるべく目線を動かさず、最奥の駐車スペースに車を滑り込ませた。
エンジンを切ると、静けさが車内に降りてきたのに、耳の奥だけはまだ何かが鳴っていた。
ワゴン車がどこに止まるか、わざと顔は向けず、視界の縁の濃淡で位置を探る。
ゆっくりと、私から遠い区画に止まる気配があった。
深呼吸しようとしたが、肺の奥にうまく空気が入らなかった。
助手席の鞄を引き寄せ、立ち上がろうとした瞬間、背中に寒気が降りる。
あの車から人が降りてくる気配がないのだ。
ドアを閉めたはずの音も、足音の気配も、何も届かない。
ごく浅く息を吸って、私はトイレへの通路を歩き出した。
地面の砂利が靴底に当たる感触が、妙にくっきりと足裏を刺す。
通路の反射ガラスに、遠くの駐車スペースが霞んで映る。
そのガラス越しに、ワゴン車がまだ沈黙したまま佇んでいるのが分かった。
背中に視線の針を刺されているようで、肩が自然に縮こまる。
トイレの中はうっすら漂白剤の匂いがして、湿った空気が肌にまとわりつく。
鏡に映る自分の目が赤くなっていることに気づき、視線をそらした。
戻るときも、あえて振り返らなかった。
目だけをわずかに動かし、遠くの区画をすり抜けさせる。
やはり車から人影は出ていない。
運転席の影が、じっと同じ姿勢で沈んでいるように見えて、背骨の奥がじりと熱を持つ。
私はドアを開ける手を震わせ、シートに滑り込んだ。
エンジンをかけ、深呼吸を一度。
発進させると、ミラーの中のワゴン車のヘッドライトが遅れて動き出す。
SAの出口のカーブに差し掛かる直前、私は急にブレーキを踏み、荷物を確認するふりをした。
その瞬間、ワゴン車は減速するかと思われたが、速度を保ったままSAの外へ消えていった。
私は胸の奥の膜が少しだけ緩むのを感じ、ハンドルに額を近づけるようにして小さく息を吐いた。
だが、道路へ戻って一時間ほど。
背中のどこかが先に気づいた。
ルームミラーの奥、遠くにまた銀色の影が揺れている。
鼓動が喉までせり上がり、呼吸が胸の中で跳ね返る。
逃げても逃げても同じ場所に影がいるような錯覚に、指先の感覚が薄くなり、足元が頼りなく感じた。
予定外のインターの標識が迫ってきたとき、私は反射的にウインカーを出し、ギリギリの角度で高速を降りた。
車体がわずかに横滑りし、胸に貼りつくような冷汗が一気に溢れる。
バックミラーには、銀のワゴン車が高速道路の本線をそのまま走り抜けていく姿が映り、私は深く息を吸った。
けれど安堵は薄く、胸の奥では何かがまだ湿った音を立てていた。
高速を降りたあと、私は地図を広げたまま信号待ちでじっと息を潜めていた。
紙の端が手汗でふやけ、指先にまとわりつく。
本来なら一泊目の宿に向かうはずの道を外れ、地図の上で縫うように、誰も薦めたことのない細い県道へルートを変えた。
アスファルトはところどころ剥げていて、舗装の継ぎ目を通るたびに車体がかすかに揺れる。
その震えが、背中に残った影の気配を追い払ってくれるようで、私はそれにしがみつくように運転していた。
右折レーンで停まるたび、ルームミラーを覗く衝動が喉もとまでせり上がってくる。
けれど、覗いたら何かが戻ってくる気がして、意図的に視線を外へ逃がした。
ガソリンスタンドのポンプの金属が朝の光を反射していて、その眩しさに助けられる。
信号が青になっても、右足がわずかに遅れ、エンジン音がタイミングを外して膨らんだ。
「探されたらどうしよう」
考えたくない想像が、吐息の裏側で形を作りかける。
目的地を変えたこと。ルートをずらしたこと。
それらが相手の目をすり抜ける保証はどこにもない。
それどころか、もし本当にあの同僚本人だったなら、私の癖を読んで先回りする可能性だってある。
小さな集落に入ると、民家の軒先から干してある布団が風をふくんで膨らんでいた。
その膨らみ方が、人影のように見えて視線が止まる。
無関係のはずの光景が、体の内側でざらざらと音を立て、呼吸の滑らかさを奪っていく。
ハンドルを握り直し、私は二つ目の目的地に向かって車を走らせた。
その頃にはもう、旅の歓びは形を失い、ただ「どこかに隠れたい」という思いだけが胸に残っていた。
予約していた二泊目の宿は、海沿いの古いホテルだった。
ロビーの床に敷かれたカーペットはところどころ色が薄れ、潮の匂いが微かに混じっている。
チェックインのサインをするペンの先が震え、名前が少し傾いた。
フロントの人は気づかなかったようだが、私は自分の字に、なぜか別人の気配を見た。
長年使ってきた自分の字なのに、ひどく不安定に揺れている。
部屋に入って窓を開けると、海風が入り込む。
塩気のある湿った空気が、こわばった肩を押し下げるようで、私はベッドに腰を下ろした。
スマホを取り出しても、誰に連絡すべきか分からない。
職場に言っても仕方ない。
警察に言うには、決定的な証拠が何もない。
旅先の静けさの中で、私は自分の存在がやたらと心許なく感じられた。
夜になると、廊下を歩く足音がゆっくりと響いた。
宿泊客の一人だろうとわかっていても、耳がその音を拾うたび、背筋がふわっと浮く。
それでも、昼のあの道のりよりは幾分ましだった。
カーテンの隙間から海の灯りが差し、床の上に薄い銀色の帯をつくる。
私はその光を目でなぞり続けた。
もし、あのワゴン車が突然ホテルの駐車場に現れたら——
その想像を押し返すように、深く息を吸った。
翌朝、ホテルのロビーに降りたとき、フロントの女性が私を呼び止めた。
「昨日、チェックインのあとで……お客様のお車を確認しに行ったんですけど」
その声色がどこかためらいを帯びている。
私は胸の奥がざわりと動くのを感じながら、続きを待った。
「ナンバーをひとつ控えさせていただきました」
「ナンバー……?」
「はい。間違っていたら申し訳ないんですけど……」
女性は控えの紙を示しながら言った。
「到着された後すぐに、同じ方向から来た別の車が、しばらく駐車場を回っていたんです。
見ていたら……お客様のお車の前で一度だけ止まりました」
心臓が、胸郭の内側を押し上げる。
指先が冷えるのに、背中だけが汗ばんだ。
「どんな車でした?」
私の声は自分のものではないぐらい細かった。
「銀色の……ワゴンでした。
停まったとき、運転席の人が、フロントガラス越しにお客様のお車を見ていたように見えました。
けれど……私からは顔までは分かりませんでした」
頭が白くなる。
視界の端がきゅっと狭くなっていく。
あの車は、高速を降りてもなお、私を探していたのか。
ホテルまで、追いかけていたのか。
だが、次の瞬間、女性の言葉がわずかに調子を変えた。
「ただ……気になったのが」
「え?」
「そのあとすぐに、別の男性がフロントに来られて……
『このホテルに、自分の部下が来ていないか』と尋ねられたんです」
胸の内側で何かがねじれた。
部下——
思い当たる言葉はひとつしかない。
私は息を呑む。
「その方、黒のジャンパーで、名乗りはされませんでしたが……
“所長”とお呼びしていい雰囲気でした。
とても心配している様子で」
私はそこでようやく、背筋を支えていた緊張が微かに緩むのを感じた。
所長——
あの人が、私の行き先を明かさずに休みを取ったことを心配して、たぶん追ってきたのだろう。
高速の途中で追いつくことはできず、方向だけを頼りにしてここまで来た。
それなら、あのワゴン車が一瞬ホテルで車を止めた理由も説明がつく。
だが、フロントの女性は続けた。
「ただ……奇妙なことに」
「?」
「その“所長らしき方”が来られた時間と……
お客様が到着された時間が、どうも重ならないんです。
どちらかが先に到着されていたはずなのに……
記録では“どちらもその一〇分間には入っていない”ことになっていて」
私は黙った。
女性は紙を見ながら苦笑いをした。
「私の勘違いかもしれませんけど……
もしかすると、三台、来ていたのかもしれませんね。
似た車も多いですし」
私は頷くしかなかったが、胸の奥で別の疑念がひっそりと顔を上げる。
——あのワゴン車は、本当に同僚のものだったのか。
——それとも、所長が言った“気をつけておく”という言葉の意味が、私が思っていたものと違っていたのか。
高速を降りたあの瞬間、どちらが後ろを走っていたのか。
同僚の影と、所長の影と、そして記録に残らないもう一台の影。
三つの影が、高速の風に紛れて私の背後をすれ違ったのだとしたら——
私はいったい、誰から逃げていたのだろう。
答えは分からない。
ただ、海風が吹き込むロビーで、私の胸の中には妙な静けさだけが残った。
まるで、追われていたのではなく、
誰かの行き先に“導かれていた”ような静けさが。
それから年月が経ち、あの同僚が逮捕されたという知らせを聞いたとき、背中を冷たい指でなぞられたような感覚がした。
もし、あの時の車があの男だったなら、ぞっとする結末から紙一重だったことになる。
けれど同時に、あのホテルの記録の謎が、くっきりと姿を変えたわけではない。
もしかしたら——
私を探していた影は、一つではなかったのかもしれない。
私が逃げていた相手が一人ではなかったように。
そして、私の車のフロントガラスに映った誰かの視線は、
今も時々、街灯の光を受けてよみがえる。
それが誰のものだったのか。
もう確かめる術はない。
私が避けた影のどれが本物で、
どれが私自身の心の奥に潜んでいた影だったのか——
その境界は、今もときどき曖昧なまま揺れている。
(了)
[出典:194 :可愛い奥様:2012/06/25(月) 11:02:14.82 ID:Yu4YhNnD0]