十一月の終わり、山が雪と氷に封じられる直前の、あの張り詰めた静けさが好きだったと祖父は言った。
空気は刃のように鋭く、吐いた息さえもその場で凍りつきそうになる。音は雪に吸われ、世界から自分だけが切り離されたような感覚になるのだと。
祖父は三ヶ月に一度、必ず山に入った。齢七十を超えても、岩場をひょいと越えていく背中は衰えを知らなかった。計画はいつも同じだった。午前四時に登り始め、正午に山頂、午後四時には下山。天候が怪しければ即座に引き返す。それが祖父の流儀だった。
その冬、祖父は東北の名峰へ単独で入った。積雪期は素人を拒む山だ。暗闇のなか、ヘッドランプの光だけを頼りに凍てついた登山道を踏みしめる。アイゼンが雪を噛む音だけが、規則正しく響く。
中腹を過ぎた頃、前方に人影が現れた。四人組。オレンジ色のジャケット。山岳救助隊の装備だ。彼らは担架を担いでいた。水平に、慎重に。
だが、担架の上には何もなかった。
空のはずなのに、四人は重みを支えるように歩いている。足並みは揃い、視線は前だけを向いていた。祖父は声をかけた。「ごくろうさん」。四人はわずかに会釈をしたが、誰も口を開かなかった。祖父の顔を見ることもなかった。
すれ違った瞬間、祖父は妙な感覚に襲われた。自分が、風景の一部として扱われたような感覚。確認も警告もない。まるで、存在を数えられていないかのようだった。
祖父はそのまま登頂した。だが山頂に着いたのは正午を大きく回っていた。予定より二時間遅れていた。焦りが胸を締めつけた。冬山の午後は短い。祖父は休まず下山を始めた。
日が傾き、山肌が藍色に沈み始めた頃、下方の登山道にオレンジ色が揺れた。四人組だった。担架を担いでいる。
今度は、毛布が掛けられていた。
祖父は立ち止まった。担架に人を乗せて登ることはない。救助は原則、下へ運ぶ。だが四人は確かに登ってきていた。動きも、背丈も、朝すれ違った者たちと寸分違わない。
距離が縮まるにつれ、胸の奥がざわついた。朝の担架は空だった。だが今は、毛布の下に明確な膨らみがある。人の形をしている。
すれ違いざま、祖父は見てしまった。毛布の隙間から覗く手首。白く、皺が刻まれている。節の張り方まで、見覚えがあった。
自分の手だった。
その瞬間、山の空気が音を失ったという。心臓の鼓動だけが耳の奥で膨らんだ。
祖父は走った。滑落の危険も構わず、雪を蹴り、息を荒げた。だが身体はすぐに悲鳴を上げた。膝が笑い、肺が焼ける。やがて立ち止まり、必死に自分に言い聞かせた。錯覚だ。疲労だ。低体温の兆候だ。
そう考えなければ、足が前に出なかった。
日が完全に落ち、星が滲み始めた頃、背後に気配を感じた。振り返ると、四人がいた。今度は下っている。担架を担いで。
毛布は、しっかりと顔の上まで被せられていた。
祖父は道の端に寄り、やり過ごそうとした。四人は無言で近づき、無言で横を通る。その瞬間、風が止み、毛布の端がふっと持ち上がった。
白い顔。目は閉じられ、血の気が失せている。
祖父はその顔を、自分の顔だと思ったという。だが確信はなかった。ただ、否定する材料もなかった。
四人はそのまま闇の中へ消えた。
祖父は山を降りきった。麓の駐車場に辿り着いたとき、空は白み始めていたという。時計を見ると、出発から丸一日が経っていた。
予定では、夕方四時には戻っているはずだった。
祖父はそれ以来、冬山に入らなかった。理由を聞いても、「ああ、もう十分だ」としか言わなかった。
あの四人が本当に救助隊だったのか。担架の上に誰がいたのか。祖父は最後まで語らなかった。
ただ一度だけ、酒の席で呟いた。
「山はな、迎えに来るときは、ちゃんとした格好で来る」
それがどういう意味だったのか、今もわからない。
だが十一月の空気が冷え込むたびに、担架を担いだ四人の足音が、どこかで揃って響く気がしてならない。
[出典:599 :本当にあった怖い名無し:2008/01/23(水) 00:03:15 ID:PCndGtF20]