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乾かない駅名 rw+2,063

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高校二年の春だった。もうすぐ日が落ちる頃、名鉄神宮前の駅から少し離れた道を、自転車で走っていた。

その日、友人の家に泊まる予定だった。熱田神宮の裏手を抜け、車通りの多い大通り沿いを走っていた時、音が遠ざかった。車のエンジン音も、タイヤの摩擦音も、背後の風も消えた。耳の奥が詰まったように静かになり、胸に薄い違和感が広がった。

気がつくと、道が変わっていた。両脇を高い石垣に挟まれた下り坂を走っている。見覚えはないが、驚きはなかった。これが初めてではない感覚だった。

昔から、時計の針が一瞬止まるような、世界が裏返るような瞬間が時々あった。その時も「まただ」と思っただけで、ブレーキはかけず、坂を下り続けた。

坂を下りきると町に出た。人影のない商店街だった。夕暮れにしては暗すぎる。空は鼠色に沈み、街灯は点いていない。シャッターの閉まった店が並び、木の看板と紙のポスターが風に揺れていた。地図ではなく、古い映画の中にある街並みの質感だった。

通りの先に瓦屋根の建物が見えた。入口の上に黒い木の板が掲げられている。白墨のような文字が濃く、くっきりと浮かんでいた。

神宮前駅。

喉が乾いた。首筋が冷たくなった。木造の駅舎で、柱に朱色が差してある。裸電球が二つ、弱く灯っている。今の神宮前とは似ても似つかないのに、妙に納得した。

これは昔の神宮前駅だ。

根拠のない確信だったが、揺るがなかった。不意に、地面に足を下ろしてはいけない気がしている自分に気づいた。自転車から降りるという発想が浮かばない。地面が、触れてはいけないもののように感じられた。

駅の中を覗く気にはならなかった。覗けば何かが壊れる。時間か、自分か、あるいはもっと大きなものか。

自転車をUターンさせた。なぜか熱田神宮の方角へ向かうべきだと思った。確信はない。ただ、あちらだという感覚だけがあった。

走っても走っても町並みは変わらない。同じ家、同じ無人の店、同じ曇った窓。空気が薄い。視界の端が少しずつ滲んでいく。

突然、光が差した。白く、冷たい光。夕方でも昼でもない、名前のない光だった。

次の瞬間、見慣れた道に戻っていた。熱田神宮の裏手の舗道。自転車は止まり、息が切れていた。車の列が音を立てて流れている。

スマホを見ると、二時間が過ぎていた。体感は三十分ほどだった。

友人からの着信が並んでいた。折り返すと怒鳴られた。説明はできなかった。

それから何年も経った。

名鉄に乗って神宮前駅を通るたび、時刻表を見る癖がついた。発車時刻が、まれに一分だけずれて見えることがある。次の瞬間には戻る。隣の乗客は誰も気づいていない。

ある朝、ホームの駅名標を見上げた。白地に黒の文字。その黒だけが、わずかに湿った艶を帯びて見えた。目を逸らすと、乾いた普通の黒に戻っていた。

降りていない。あの駅には、降りていない。

それでも、何かは持ち帰ってしまったらしい。時間が、時々、欠ける。理由のない遅れが積み重なっていく。

あの木の板の黒は、まだ乾いていない。

今も、どこかで、同じ駅名を掲げたまま、待っている気がしている。

[出典:658 :本当にあった怖い名無し:2009/01/21(水) 00:47:08 ID:jm9abuJf0]

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