親父がこの話をしたのは、酒が入った席でも、誰かに聞かせるためでもなかった。
夜中、居間で古い地図を広げていたとき、独り言のようにぽつりと漏れた。
「……あれは幻覚じゃない」
それだけ言って、しばらく黙った。
親父が高校生だった頃、今から半世紀以上前の話だという。夏休み、山岳部の合宿で宮崎の山に入った。山の名前は誰も正確に覚えていない。地図には載っていたはずだが、記憶の中では、どの山とも一致しない形をしている。
部員は十人ほど。装備は今ほど整っていなかったが、無謀というほどでもなかった。天気予報も安定していて、下山も余裕を見た計画だった。
それが、下山途中で一変した。
午後になって、空が急に暗くなり、音もなく雨が落ち始めた。山ではよくあることだと誰も気にしなかったが、数分もしないうちに、前が見えなくなるほどの豪雨になった。沢が一気に増水し、踏み跡は泥に消えた。
雨をしのげる場所を探して斜面を外れた。その判断が、後になって致命的だったと分かる。
視界は白く、上下の感覚が曖昧になり、気づけば元のルートが分からなくなっていた。無線もなく、笛の音も雨に吸われた。引き返そうにも、どこから来たのか分からない。
一日目はまだ大丈夫だと思っていた。夜を越せば雨は止む。そう信じていた。
二日目、雨は止まなかった。食料は減り、靴の中は乾かない。誰も大声を出さなくなり、会話は必要最低限になった。
三日目の朝、全員が理解した。もう自力では下りられない。
そのときだった。
雨の向こうから、人が現れた。
単独だった。年配の男で、年齢は五十代か六十代に見えたという。雨具も着ていないのに、濡れている様子がなく、足取りも乱れていなかった。
男は周囲を見回し、部員たちの顔を順に見て、落ち着いた声で言った。
「大丈夫。絶対に下山させる。ついて来なさい」
それだけだった。
誰も疑問を挟まなかった。疑う余地がなかった、と親父は言う。助けが現れたという事実だけで、全員の判断力は男に預けられていた。
男は先に立ち、迷いなく進んだ。獣道のような斜面を選び、増水した沢を避け、危険な場所では必ず足を止めて待った。声を荒げることもなく、振り返って人数を確認するだけだった。
不思議なことに、誰一人転ばなかった。疲労はあったが、足は動いた。方向感覚も戻ったような気がした。
どれくらい歩いたのか、誰も分からない。
気づいたとき、雨は弱まり、視界が開けていた。前方に人影が見え、次の瞬間、警察と消防団が視界に入った。
全員、無事だった。
保護され、毛布をかけられ、次々と質問を受けた。「どうやって下りてきた」「誰が先導した」
親父たちは当然のように答えた。
「年配の方が一緒でした。救助の人じゃないんですか」
その場の空気が、一瞬で変わった。
「誰も送っていない」「君たちだけで下りてきた」「雨が止むまで救助は動けなかった」
何度説明しても、誰も信じなかった。全員が同じ人を見て、同じ声を聞いたと言っても、記録に残らない存在は存在しないと判断された。
最終的に、集団ヒステリー。極限状態で同一の幻覚を見た。そう結論づけられた。
だが、親父は言った。
幻覚なら、あの男は途中で消えるはずだ。振り返ったらいなくなっているはずだ。だが、最後までいた。山を下りきるまで、確かに前を歩いていた。
それに、と付け加えた。
下山後、全員が無意識に振り返った。あの男がどこにいるのか確認しようとした。しかし、もう誰も「一緒に来た人」を探していなかった。最初から、そこにいなかったかのように。
後日、親父の一学年上の先輩が家に来たとき、二人でこの話をしているのを聞いた。
「今でも顔を覚えてるよな」
「覚えてる。忘れようがない」
細部は一致していた。服装も、声の調子も、歩き方も。
ただ一つだけ、食い違った点がある。
先輩は言った。
「最後、あの人、俺たちの後ろに立ってたよな」
親父は、答えなかった。
今でも親父は山に入る。だが、あの話をしてから、必ず同じことを言うようになった。
「山で道を教えてくる人間を、信用するな」
理由は、聞いていない。
[出典:247 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2016/05/19(木) 09:23:13.42 ID:b5SUfpZZO.net]