その日の朝も、じめりとした夏の空気が俺の肺を満たしていた。
中学二年生だった俺は、毎朝、陸上部の練習のために早起きして、まだ寝ぼけた街を独り走るのを日課としていた。階下にある弟のベッドは、いつものように空っぽだった。
また、どこかへ隠れているのだろう。弟はそういう奇妙な癖があった。机の下、テーブルの陰、タンスの裏。いつも何かに怯えるように、狭い空間に身を潜める。それが夢遊病だと知るのは、ずいぶん後のことだ。
俺は玄関の鍵を開け、外に出た。すると、家の前のコンクリートの上で、弟が丸くなって眠っていた。俺は彼を揺り起こし、何も言わずに走り出した。今にして思えば、あのとき、鍵は内側から掛けられていた。誰が鍵を開けたのか。俺が閉め忘れたのか。いや、あの頃の俺は、確認癖があった。鍵を閉めた記憶がない。しかし、弟を外に出した記憶もない。俺は、その違和感を胸の奥にしまい込み、練習へと向かった。
やがて、弟の奇妙な行動は次第に収まっていった。時折、夢遊病の発作を起こすことはあったが、家の外で眠ることはなくなった。そして、いつしか、俺の記憶からも、その出来事は薄れていった。
あれから、もう十数年が経った。家族で正月の食卓を囲んでいたとき、母親がふと、昔の話を始めた。
「あんたたち兄弟は、三人とも夢遊病の癖があったのよ」
母親の言葉に、俺は驚いた。俺は、自分が夢遊病だったなんて覚えていない。寮にいる兄貴もまた、夢遊病だったなんて知らなかった。兄貴は、中学の頃からずっと寮生活だったから、俺たちと離れて暮らしていた。だから、その話を聞いて、俺は思い出したのだ。あの、忘れかけていた、奇妙な夢のことを。
「なあ、兄貴」
電話をかけて、俺はそう切り出した。
「昔、何度も同じ夢、見たことないか」
兄貴は少し考えてから、
「ああ、見たな。かくれんぼする夢だろ」
と答えた。
「そう。俺は、その夢の中で、知らない子どもに誘われたんだ」
「川原に一緒に行こうって。俺は断ったけどな」
兄貴の声が、少し震えているように聞こえた。
「俺も断った。じゃあ、その子が最後に、なんて言ったか覚えてるか」
「『じゃあいいや。弟と行くから』って言ったな」
その言葉を聞いて、俺の背筋に冷たいものが走った。同じ夢。同じ言葉。その夢を見なくなったのは、弟が死んだ、あの日の朝からだった。
あれは、十二月の凍えるような朝だった。俺がランニングから帰ると、家の前に救急車が停まっていた。サイレンの音は鳴っていなかった。母親の悲鳴のような声が聞こえた。
布団の中で冷たくなっている弟を、母親が発見したらしい。死因は心不全。しかし、弟の顔は、安らかに眠っているようには見えなかった。むしろ、何かから解放されたような、しかし、どこか寂しげな、そんな表情をしていた。
弟は、あの夢を見たのだろうか。俺と兄貴が断った、あの誘いに、ついて行ったのだろうか。末っ子だからか。ただ、純粋だったからか。それとも、単なる心不全なのか。俺には、分からない。ただ、一つだけ確信していることがある。これは、親には絶対に話してはいけない。俺と兄貴だけの、秘密なのだ。
これは、弟が死んでから、俺と兄貴が封印した、決して触れてはいけない、暗い記憶。弟の十三回忌が近づくにつれて、俺の脳裏には、あの夢の光景が、鮮明に蘇ってくる。
あの日の朝、外で寝ていた弟の顔を。あの日の朝、冷たくなっていた弟の顔を。そして、最後に、「じゃあいいや。弟と行くから」と言った、知らない子どもの顔を。
[出典:778 :あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/11/11 22:01]