うちから歩いて十分ほどのところに、古い鉄道用のトンネルがある。
今はもう使われていない。入口はコンクリートでふさがれ、線路も残っていない。地元では、昔から少し名の知れた心霊スポットだった。
建設中に崩落事故があったとか、開通してからも不審な死亡事故が続いたとか、そういう話はいくつもある。どれが本当で、どこから尾ひれがついたのかは分からない。ただ、近くに慰霊の鳥居が立っているのは事実だった。
父が子どもの頃、そのトンネルはまだ塞がれていなかった。
立ち入り禁止の看板もなく、柵もなく、ただ山の斜面に黒い口を開けていたという。夏の夜になると、近所の子どもたちはよく肝試しに行ったらしい。父も小学生の頃、友人たちと一度だけそこへ入った。
八時を少し回ったころだった。
昼間の熱がまだ地面に残っていて、草むらでは虫がしつこく鳴いていた。懐中電灯を持った数人の子どもが、ふざけながらトンネルの入口へ向かった。横に立つ鳥居を見て、誰かが大げさに手を合わせ、別の誰かが笑った。
中は真っ暗だった。
懐中電灯の光は、思ったほど遠くまで届かなかった。濡れたようなコンクリートの壁に丸い光が貼りつき、足音だけが奥へ奥へと響いていく。空気は外より冷たかったが、父は怖いというより、ただ早く終わらせたいと思っていたそうだ。
何かが見えたわけではない。
声が聞こえたわけでもない。
奥まで行ったのか、途中で引き返したのか、そのあたりは父の記憶も曖昧だった。ただ、最後尾を歩いていた友人が急に黙り込み、そのあと誰かが「もう出よう」と言った。
すると全員が、示し合わせたように走り出した。
外へ出ると、みんな息を切らしていた。笑ってごまかす者もいたが、最後尾の友人だけは顔色が悪かった。問い詰めると、そいつは小さな声で「背中を触られた」と言った。
氷みたいに冷たい手だった、と。
それ以上は何も起きなかった。
家に帰っても熱を出す者はいない。夢に何かが出たという話もない。父は拍子抜けしたらしい。怖い場所に行ったのに、結局、何も見なかった。子ども心には、そこが少し不満だったという。
おかしな話を聞いたのは、その翌朝だった。
祖父が夜中に帰ってきたと知った父は、何気なく理由を聞いた。職場の飲み会で終電を逃し、歩いて帰ってきたのだという。
父はそこで少し驚いた。
祖父は、あのトンネルを通って帰ってきたらしかった。
「怖くないの?」
父がそう聞くと、祖父はけろりとしていた。
「何がだ。」
「あのトンネル。」
「ああ。別に怖くないだろ。明かりもついてるしな。」
父は、最初、祖父が別の道のことを言っているのだと思った。
けれど違った。祖父はたしかに、あのトンネルを通ったと言った。しかも中には作業員がいたという。
「作業員?」
「いるだろ、いつも。夜でもやってるぞ。こっちが『お疲れさまです』って言うと、向こうも返してくれる。」
父は黙った。
昨夜、自分たちが入ったとき、トンネルの中に明かりなどなかった。作業員もいなかった。人の気配さえなかった。
「でも、あそこ、もう使ってないんだろ。」
父がそう言うと、祖父は首を傾げた。
「何言ってんだ。昨日もいたぞ。」
「誰が。」
「作業服の連中だよ。顔を真っ黒にしてな。ずいぶん遅くまでやってるもんだと思ったけどな。」
父が何も言えずにいると、祖父は笑った。
「お前、幽霊が挨拶返すと思ってるのか。」
その言い方があまりにも普通だったので、父はそれ以上聞けなかった。
祖父にとって、あの人たちは怪しいものではなかったのだ。夜中の廃トンネルに明かりがつき、顔を汚した作業員がいて、挨拶を返してくる。それで十分だった。
それからも祖父は、何度かそのトンネルを通ったらしい。
ただ、毎回ではなかった。
明かりがついている日と、ついていない日がある。人がいる日と、誰もいない日がある。祖父はそれを「今日は休みだったんだろう」くらいに考えていた。
あるとき父が、作業員はいつも同じ顔なのかと聞いた。
祖父は少し考えてから言った。
「いや、そうでもないな。顔ぶれは変わる。」
「知ってる人はいるの?」
「いない。けど、向こうは俺を知ってるみたいだったな。」
「なんで。」
「俺が入ると、先に頭を下げるやつがいる。」
父は、その話を聞いてから、二度とあのトンネルに近づかなかった。
祖父は最後まで、あそこを怖がらなかった。むしろ父のほうを臆病者のように笑っていたという。幽霊なんかいるわけがない。あれは作業員だ。ちゃんと働いている。ちゃんと挨拶もする。そう言っていた。
今、そのトンネルは完全に塞がれている。
入口は厚いコンクリートの壁になり、隙間らしい隙間もない。昔の鳥居だけが、少し離れた場所に残っている。草に埋もれかけ、朱色もほとんど剥げてしまった。
私は、そこへ行ったことがない。
子どもの頃から父に止められていたし、自分でも行く気になれなかった。道として使う必要もない。近くを通るだけなら、いくらでも避けられる。
それでも、夜になると、たまに思い出す。
父は何も見なかった。
友人は、背中を触られただけだった。
祖父だけが、明かりのついたトンネルを歩き、作業員たちと挨拶を交わしていた。
どちらが安全だったのか、今でも分からない。
見えなかった父たちが守られていたのか。
見えていた祖父が受け入れられていたのか。
それとも、あそこでは最初から、挨拶を返した人間だけが客ではなくなるのか。
数年前、夜遅くに近くの道を通ったことがある。
トンネルへ続く細い道の奥に、白っぽい光がにじんでいた。街灯ではない。車のライトでもない。ふさがれたコンクリートの向こう側から、薄く漏れているように見えた。
私は足を止めなかった。
ただ、そのとき、風に混じって声のようなものが聞こえた気がした。
「お疲れさまです。」
振り向かなかった。
返事もしなかった。
けれど、そのあとからずっと引っかかっている。
あの声は、こちらに向けられたものだったのか。
それとも、私の後ろを通った誰かに向けられたものだったのか。
最近、あの道の近くを通るとき、少しだけ気になることがある。
コンクリートで塞がれたトンネルの前に、人が立っていることがあるのだ。
作業服を着ている。
顔はよく見えない。
こちらが見ていることに気づくと、その人はゆっくり頭を下げる。
私はまだ、一度も返していない。
でも、たぶん向こうは、もう私の顔を覚えている。
[出典:308 :本当にあった怖い名無し:2022/01/23(日) 17:24:38.71 ID:uhA1MO9x0.net]