電車を降りた瞬間、空気が違った。
湿気を含んだ風が、皮膚に貼りつく。山の匂いというより、どこか鉄のような、乾いた血のような匂いが混じっていた。
正典は無言のまま改札を抜け、こちらを振り返らない。
自分は霊感なんてない。そう何度も心の中で繰り返した。だが、あの話を聞いたあとでは、何を見ても意味があるように思えてくる。
村に入ると、道端の草がやけに低く刈られていた。誰もいないはずなのに、どこかから視線だけが集まってくる気配がする。
正典の実家には寄らなかった。真っ直ぐ寺へ向かう。
山の中腹にある小さな寺だった。瓦は古く、苔が分厚く張りついている。境内に足を踏み入れた瞬間、正典が立ち止まった。
砂利の上に、丸い石がいくつも転がっている。
近づいて気づいた。どれも真ん中から綺麗に割れていた。叩き割ったというより、内側から裂けたように。
「お代わりや」
住職は笑っていたが、目は笑っていなかった。
「身代わり。正典を殺そうとしたときのな」
殺そうとしたとき。
その言い方が引っかかった。誰が、ではない。何が、でもない。ただ「殺そうとしたとき」。
正典は石を一つ拾い、指先でなぞった。
「俺去年、何もしてないよな」
住職は答えなかった。ただ、本堂の奥から包みを持ってきた。
漆黒の位牌。真ん中から真っ二つに割れている。割れ目は焼け焦げたように黒い。
「お師匠さんや」
それだけ言って、住職は口を閉じた。
正典はしばらく位牌を見つめていたが、やがて笑った。
「俺、生きてるな」
冗談めかした言い方だったが、誰も笑わなかった。
帰り道、村の商店の前を通った。例の駄菓子屋だ。戸は閉まり、札が掛かっている。
──閉店。
扉の隙間から、誰かがこちらを見ていた。年老いた目。怒りでも恐怖でもない、もっと単純な拒絶。
正典と目が合った瞬間、ぴしゃりと内側から戸が閉められた。
駅へ向かう途中、畑が広がっていた。葉は青いが、どこか元気がない。水は足りているはずなのに、全体が沈んで見える。
「去年より枯れてるな」
正典がぽつりと呟いた。
「俺のせいかな」
軽い調子だったが、否定する言葉が出なかった。
電車の中で、正典は窓に映る自分の顔をじっと見ていた。
「なあ」
「ん?」
「もし俺が“いるだけ”でダメなんだとしたらさ」
そこで言葉が途切れた。
そのとき、車内の照明が一瞬だけ暗くなった。すぐに戻る。だが、正典の顔だけが、窓に映らなかった。
自分の顔の横に、空白がある。
瞬きをすると、正典はちゃんと隣に座っていた。窓にも、普通に映っている。
「今、なんか言ったか?」
「いや」
心臓が早鐘を打っていたが、理由は言えなかった。
自分は霊感がない。見たこともない。感じたこともない。
それでも、あの寺の石が全部割れたあと、何が壊れるのかを考えてしまう。
石が壊れるのか。
位牌が壊れるのか。
それとも、正典か。
あるいは。
駅に着き、別れ際、正典はふと振り返った。
「今年は何もなかったよな」
そう言って笑った。
そのとき、ホームの端で、子どもが転んだ。泣き声。慌てる母親。人が集まる。
たいした怪我ではないはずだ。
なのに、自分は一瞬、確信してしまった。
──ああ、始まった。
何が始まったのかはわからない。
ただ、帰宅してからも、スマホのニュース通知がやけに多い。事故、火事、突然死。
偶然だ。そう言い聞かせる。
だが、怪談サイトを開く指が止まらない。
もしかすると、“オトロ”は憑くものではなく、気づかれるものなのかもしれない。
あの村で、正典を見た瞬間。
あるいは。
──一緒に行った、自分を。
(了)