私はいま、夫と子どもと一緒に地元の集落に暮らしている。
山と田畑に囲まれた、夜になると蛙と風の音しか残らない土地だ。都会から移住してきた人は口をそろえて「星がすごい」と言う。でも私は、もっと別のもののほうが気になる。
あの婆ちゃんのことだ。
名前は知らない。皆からは「よく見える婆ちゃん」と呼ばれていた。小柄で背中が丸く、色あせた前掛けをつけ、麦わら帽子を深くかぶっている。腰を曲げたまま畑に立つ姿を、子どもの頃から何度も見た。にこりともしない顔なのに、不思議と優しい気がしていた。
婆ちゃんは未来を当てる人ではなかった。「今」を言い当てる人だった。
ある年、近所の子どもが消えた。まだ六つだった。親は警察に連絡し、山を総出で探した。婆ちゃんは騒ぎの外で、ぽつりと言った。
「〇〇の町におる。田代んとこの孫と一緒じゃ。〇日の朝帰る」
〇〇は電車を乗り継がないと行けない都市だ。子どもがどうやって、と思われた。それでもその朝、田代の孫に連れられて帰ってきた。本人は道中の記憶が曖昧だと言った。
山で事故があった年もそうだ。
「この盆は川に行け。山はやめろ」
逆だろうと笑われた。山は慣れた場所だし、川のほうが危ない。けれど忠告を聞かなかった家で、子どもが一人帰らなかった。
婆ちゃんは金を取らなかった。祈祷も除霊もしない。ただ言うだけだ。
「葬式のあとは塩を引け。家族は帰ってくるが、そうじゃないのもくっついてくる」
浄土真宗が多い地域で清め塩はしない。でもうちでは必ず撒いた。引っ越してきた家がそれをしなかった年、立て続けに不幸があった。偶然かもしれない。でも年寄りたちは何も言わずに塩を置くようになった。
私は、あの婆ちゃんに一度だけ頼ったことがある。
独身で都会に出て働いていた頃、好きな人がいた。振り向いてはくれなかった。帰省したとき、何気なくその話をした。
「その男は△△の次男じゃな」
当たっていた。誰にも話していないのに。
「無理じゃ。好きな女がおる。一途な男じゃ」
それも当たっていた。彼は職場の先輩に長く片思いしていた。
私は泣いた。婆ちゃんはしばらく黙って、言った。
「おまえは強情じゃ。一度だけじゃ。〇日の夜、△△へ行け」
その夜、彼から呼び出された。先輩に振られたと言っていた。私は話を聞き、何度も会い、やがて結婚した。今の夫だ。
でも、あれからだった。
婆ちゃんは私の名前を呼ばなくなった。畑で会っても、目が合わない。話しかけても返事をしない。噂では、ある時期を境に誰とも話さなくなったらしい。
「何かが抜けたんじゃろ」
年寄りの一人がそう言った。
抜けたのか。抜いたのか。
あれが最後だったのだろうか。私が。
私は時々考える。
山に行くなと言われて行った家。
川に行けと言われて行った家。
そして、私に行けと言った夜。
あれは予言だったのか。それとも、何かを動かしたのか。
彼は本当に、あの夜、偶然に振られたのだろうか。
もう婆ちゃんはいない。ひっそりと亡くなったと聞いた。葬式にも呼ばれなかった。
それでも帰省するたび、あの家の前を通る。誰も住んでいないはずの家。荒れた畑の隅に、腰を曲げた影が立っている気がする。
先日、娘が言った。
「おかあさん、あのおばあちゃん、なんであんなに長いこと畑におるの?」
誰もいないはずの場所を見ながら、そう言った。
私は答えられなかった。
塩は、今も必ず撒いている。
でも、どこに撒けばいいのか、最近わからなくなってきた。
――あの夜、私がもらったものは、本当に“幸せ”だったのだろうか。
娘が誰かに話しかけている声が、ときどき風に混じる。
私は振り返らないようにしている。
[出典:538 :可愛い奥様:2012/08/09(木) 03:09:04.79 ID:w5Uy35ag0]