職場の飲み会の席で、上司がぽつりと語り始めた。もう十年以上前の話だという。
当時、地方に新設された工場の事務所に配属され、山間の町外れにある施設で、夜遅くまでひとり仕事をする日が続いていた。残業明けの深夜、慣れない裏道で曲がる場所を一つ間違え、気づけば見覚えのない道を走っていた。
右に出るはずの分岐を左に入ってしまったらしい。街灯はなく、道幅は次第に狭まり、ガードレールもない。引き返そうにも転回できる場所がない。車のヘッドライトに照らされて、生活道らしい轍が続いているのを見て、「この先に集落がある」と思い込み、そのまま進んだ。
やがて、闇の奥にぼんやりと明かりが浮かび上がった。家々だ。ほっとして、そのうちの一軒の前に車を停めた。エンジンを切り、タバコに火をつける。一本吸い終え、ドアを開けた瞬間、身体が固まった。
家の周囲に、人が立っていた。
十人、二十人。数は曖昧だが、全員が異様なほど静かに、こちらを見ている。近づいてくる気配はない。だが、距離は近い。全員が老人だった。男女の区別もつかないほど背が曲がり、顔には感情の起伏がなかった。
一人が声を上げた。
次の瞬間、あちこちから同じ調子の声が重なった。
「帰れ」「帰れ」「他所もん」「やらん」「帰れ」
意味のある言葉と、そうでない音が混じり合い、怒鳴っているのに、どこか平坦だった。背中に冷たいものが走った。後ずさると、背後にも気配がある。振り返ると、そこにも同じ老人たちが立っていた。
視線を落とした瞬間、足元に、小柄な老婆がいた。いつの間にか、真下から見上げている。手には数珠。口は動いているが、念仏なのか、別の言葉なのかは分からなかった。声だけが異様に大きく、耳に直接流れ込んでくる。
考える前に車へ飛び乗り、エンジンをかけた。乱暴に発進すると、誰も追ってはこなかった。だが、バックミラーの外、山に反響するように、老婆の声だけがいつまでも残った。
気がつくと、隣県の国道に出ていた。夜が明けるまで走り続け、朝になってようやくアパートへ戻った。その日から、身体がおかしくなった。理由もなく重く、食事が喉を通らず、鏡を見ると、自分の顔が自分のものではないように見えた。
病院では異常なし。疲労と精神的なものだと言われた。自分でもそう思おうとしたが、日に日に調子は落ちていった。
ある日、役場で手続きをした際、対応した若い担当者が、書類を見ながら言った。
「……あの辺り、通りました?」
何気ない問い方だったが、上司が答える前に、彼は続けた。
「呪われてますよ、あなた」
冗談には聞こえなかった。彼は霊感があるという噂の人物だった。
「お祓い、受けた方がいいです。知ってる寺があります」
紹介された寺の住職は、淡々とした口調で祓いを行った。長い時間ではなかった。その夜から、嘘のように体調は戻った。
礼を言うついでに、上司はあの夜のことを話した。住職は途中で何度か頷き、最後まで黙って聞いていたが、説明めいたことはほとんど語らなかった。ただ、一言だけ言った。
「関わりが浅いうちで、よかった」
上司は一つだけ気になっていたことを口にした。
「あの村、若い人が一人もいませんでした。全員、年寄りでした」
住職は一瞬だけ視線を逸らした。
「……記録上は、もう人の住んでいない集落です」
それ以上は語らなかった。
後日、どうしても確かめたくなり、役場の担当者と取引先の人間を誘って、昼間にその場所を訪れた。地図上では確かに存在するが、道は分かりにくい。辿り着いた先は、崩れかけた廃屋ばかりで、人の気配はなかった。
集落の奥まで歩き、引き返そうとしたとき、不意に背中に視線を感じた。振り返ると、昼間なのに、そこだけ影が濃く、あの夜に見た家並みと同じ配置が浮かび上がっているように見えた。
車に残っていた役場の彼が、窓越しにこちらを見ながら呟いた。
「あの陰に……数、増えてませんか」
誰も返事をしなかった。
三人はその足で、再び寺を訪ねた。事情を話すと、住職は明らかに不機嫌になった。
「二度と、あの場所に近づくな」
その声の調子が、あの夜、山に残った老婆の声と、同じ高さだったことを、上司は今でも忘れられないという。
[出典:241 :2011/07/20(水) 22:12:44.62 ID:KT3ktib/0]