名古屋の大学に通っていた松田(仮名)から聞いた話。
大学進学を機に一人暮らしを始めることになった松田は、市内で下宿を探していた。しかし、条件の良い物件はどこも埋まっており、ようやく見つけたのは大学からかなり離れた古びた木造アパートだった。台所やトイレは共同だが、家賃の安さに惹かれ、松田は即決で契約を交わした。
住み始めてみると、そこは静かで落ち着いた部屋だった。安さのわりに居心地は悪くなく、次第に松田はこの暮らしに満足するようになった。
だが、ある晩、異変が起こる。松田の部屋に遊びに来ていた彼女が、突然「帰る」と言い出したのだ。引き止める間もなく、彼女は部屋を出ると、申し訳なさそうに松田にこう告げた。
「気を悪くしないでほしいんだけど……この部屋、なんだか気味が悪いの」
彼女によると、お酒を飲んでいる間ずっと妙な気配を感じ、まるで誰かが見ているような感覚に襲われていたという。さらに不思議なことに、いくら飲んでもまったく酔わなかったらしい。
「気をつけたほうがいいよ」
心配する彼女を、松田は笑って見送った。霊の類をまったく信じていなかったのだ。
しかし、それから松田の身に不可解なことが起こり始めた。
何もしていないのに、異様な疲労感に襲われる。バイトが特に忙しいわけでもないのに、部屋に帰ると体が重く、立ち上がることすら困難になる。そして夜中には、誰かに首を絞められるような感覚に襲われ、飛び起きることが続いた。
食欲は減退し、次第にやつれていく。病院で診てもらっても、原因は分からない。彼女は「やっぱり部屋のせいだ」と引っ越しを勧めたが、松田にはそんな余裕はなかった。
そうこうしているうちに、決定的な夜が訪れる。
その日、松田はバイトでミスをしてしまい、疲労困憊のまま帰宅し、そのまま眠り込んだ。真夜中、強烈な圧迫感で目を覚ます。体はまったく動かない。
視線だけを動かすと、押入れの襖がわずかに開いていた。そこから、するすると白い手が伸びてくる。
松田は金縛りの中、声にならない悲鳴を上げた。
手はゆっくりと松田へ近づき、何かを掴もうとしている。心の中で「助けて……!」と叫んだ瞬間、その手はふっと襖の奥へ引っ込んだ。
しかし、終わりではなかった。
今度は、襖の隙間から白い女の顔が現れ、じっと松田を見つめていた。
目を逸らすこともできず、そのまま朝を迎えた松田は、ようやく体が動くようになると、慌てて部屋を飛び出した。
彼女を呼び出し、近くのファミレスで事情を話していると、隣の席にいた僧侶が急に話しかけてきた。
「あんた、そんなもの、どこで拾ってきた!」
驚く松田に、僧侶は「強い念が憑いている」と告げる。このままでは大変なことになると言い、すぐに部屋へ案内するよう求めた。
部屋に着くと、僧侶は押入れの前に立ち、じっと睨みつけた。そして印を切ると、突然襖を外し、その裏側を松田たちに向けた。
そこには、色鮮やかな花魁の絵が描かれていた。
それはまるで生きているようで、松田をじっと見つめているように感じられた。
「この絵には強い怨念が込められている。君の生気を吸い、次第に実体化しつつあった。このままでは取り殺されるところだった」
僧侶は襖の周りに結界を張ると、「明日、寺に持ってくるように」と告げた。
翌日、松田は彼女とともに寺を訪れ、襖絵は護摩で焼かれ、供養された。
それ以来、松田の異変はぴたりと止まったという。
(了)