この話は、都内でフリーランスの仕事をしている飯田さん(仮名)から、酒の席でぽつりと打ち明けられたものだ。
当人は「ただの記憶違いかもしれないよ」と何度も前置きをしていたが、その話を聞いていた誰もが、酒の酔いが一気に醒めていくのを感じた。理由は単純だ。話の中に、「日常」のかたちをした、奇妙な歪みが潜んでいたからだ。
***
最初に違和感を覚えたのは、街の風景だったという。
昼下がりの陽がぼんやり落ちかけた時間。いつも通る駅前の道沿いを歩いていた時のことだった。角を曲がると、そこにあるはずの居酒屋が消えていた。そこには工事中の仮囲いがあり、中から建築音が響いていた。
「あれ?建て替えですか?」
近くの喫煙所にいたサラリーマン風の男に何気なく聞くと、「何言ってんの?」と鼻で笑われた。
「あそこ、ずっと空き地だったじゃん。やっと居酒屋が入るってんで、今みんな期待してるとこだよ」
そんなはずはない、と心の中で呟いた。確かに、大学の頃のサークル仲間とそこで何度も飲んだ。つい数年前にも、あの店で一人飲みをして、酔いすぎて転倒しかけた記憶がある。カウンターの端には、いつもカエルの置物があって、壁には昭和のアイドルのポスターがずらりと貼ってあったはずだ。
でも、それを証明できるものは何もない。写真もレシートも、SNSの投稿もなかった。誰かと共有した記憶があるはずなのに、相手に話しても、全員が「そんな店知らない」と言った。
それが最初だった。
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それ以降、日常の至るところで「ズレ」を感じるようになった。ある日、幼馴染の優作と再会した時もそうだった。
「お前、由香って覚えてるか?」
飯田がそう尋ねた瞬間、優作の表情が固まった。
「誰それ?」
「は?中学の時、隣のクラスにいた子だよ。陸上部の。お前、ずっと好きだったじゃん」
「そんな子、いたっけ……?」
由香は確かに存在した。飯田の中では、彼女の汗の匂いさえ思い出せるのに。優作の目はまるで、見知らぬ人を見るようだった。
それだけではない。中学校の卒業アルバムを見ても、由香の顔がどこにも載っていなかった。その代わりに、知らない女子が笑っていた。名前は「南野理央」。記憶のどこにもない名前だった。
「そんなの、ありえないだろ」
思わずアルバムを何度もめくった。だが、由香の痕跡はどこにもなかった。
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原因かもしれない、と飯田が語った出来事がある。
二十歳の頃のこと。いつものように商店街を歩いていると、向こう側から「何か」が来たという。
それが何だったのか、今となってはまったく思い出せない。形も、色も、音さえも不明。ただ、目の前を通り過ぎた瞬間、強烈な立ち眩みが襲った。世界がぐるぐると回り、時間が一瞬にして引き延ばされたような感覚だけが残っていた。
その後からだった。記憶が他人と食い違い始めたのは。
気のせいだと思い込もうとしたが、次第に無理が出てきた。家族に、七歳の頃に母親が交通事故で重傷を負った記憶を話すと、両親ともに「そんなこと一度もなかった」と否定した。
「お前、なんかのドラマと混同してんじゃないの?」
そう父親が笑った時、飯田は本気で自分が狂ったのだと思った。
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追い打ちをかけたのは、友人に連れられて行った気功師の一件だった。
肩凝りの改善と聞いて、半信半疑で訪れた治療院。そこでは、いわゆる“気の力”で人を吹っ飛ばすパフォーマンスが行われていた。
順番が回ってきた時、飯田は内心で期待していた。自分も吹き飛ばされるのだろうと。
ところが。
気功師が掌を向けて何度か試みた末、突如として後方に吹き飛ばされたのは、施術する側のその人だった。
一瞬、空気が凍った。
気功師は無理に笑顔を作り、「いやー、たまにこういうのありますからね」と言ったが、顔は明らかに動揺していた。
帰り際、飯田にぽつりと言った。
「……あなたの気は、普通じゃないです」
その言葉に、飯田は思わず詰め寄った。
「普通じゃないって、どういう意味ですか?」
答えを求めたが、気功師はまるで逃げるように距離を取った。友人もそれきり、飯田に連絡を取らなくなった。
***
「俺ね、もう人に会うのが怖いんだよ」
飯田はそう言って、酒をぐいとあおった。
中学の同窓会に出た時も、知っているはずの人がいなかったり、見知らぬ人から「小学校から仲良かったじゃん」と話しかけられたりした。記憶の齟齬はもはや偶然ではなく、構造の破綻のように感じられたという。
「この世界が本当に俺がいた世界なのか、最近、わからなくなる」
冗談ではない。笑い話にもならない。もし異世界や時空のズレが本当にあるのなら、自分はもう戻れないし、戻ったところで再び他人になるだけだ。
「……もしかしたら、あの日、商店街ですれ違った“何か”に、すり替えられたのかもな」
そう言った時の彼の声は、とても静かで、笑っているようにも聞こえた。
けれど、その目だけが、まるでこの世のものではない何かを見ているような、遠い色をしていた。
[出典:972 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/09/07(木) 13:23:40.14 ID:0cppgHn+0.net]