居酒屋が消えたのは、まだ偶然で片づけられた。
駅前の角を曲がった先にあるはずの店がなくなり、仮囲いに覆われた空き地になっていた。近くにいた会社員は「あそこはずっと更地だった」と言い、飯田がいくら店内の様子を説明しても、誰一人として同意しなかった。写真も投稿も、何も残っていない。
記憶違い。そう思い込もうとした。
だが、由香の件で、その言い訳は崩れた。
中学時代、隣のクラスにいた陸上部の女子。汗の匂いまで思い出せる。幼馴染の優作が夢中になっていたはずの彼女の名を出した瞬間、優作は本気で戸惑った顔をした。「誰それ?」と。卒業アルバムを開いても、由香の姿はない。その場所には、飯田の記憶にない女子が笑っていた。
周囲の全員が一致して「存在しなかった」と言う。
一人だけが「いた」と断言する。
二十歳の頃、商店街ですれ違った「何か」のことを、飯田は原因かもしれないと言った。形も色も思い出せない。ただ、通り過ぎた瞬間に立ち眩みがして、世界が一瞬だけ裏返った感覚があったという。その後から、他人と記憶が噛み合わなくなった。
家族に語った母の事故も否定された。確信をもって話せる出来事ほど、他人には存在しない。
気功師の件は、決定的だったらしい。
施術を受けたとき、吹き飛んだのは飯田ではなく気功師のほうだった。場の空気が固まり、気功師は「あなたの気は普通じゃない」とだけ言った。それ以降、連れて行った友人は距離を置いた。
「俺がズレてるのか、世界がズレてるのか、もう分からない」
同窓会では、知らない顔が昔馴染みのように話しかけてきた。知っているはずの人間が欠けている。誰かと共有していたはずの時間が、まるごと削除されている。
話を聞き終えたあと、私は何気なく言った。
「その居酒屋、駅前の角の?」
飯田が顔を上げた。
「ああ、カエルの置物があった店だよ」
一瞬、胸の奥が冷えた。私も、その店で飲んだ記憶がある。カウンターの端に、埃をかぶったカエルの置物。壁一面の古いポスター。終電を逃して、二人で始発まで時間を潰した夜。
だが、私のスマホにも、その店の写真は一枚もない。
後日、確かめに行った。角を曲がると、そこはやはり更地だった。掲示板には「新規居酒屋オープン予定」とある。
私は喫煙所にいた男に聞いた。
「前、ここに店ありましたよね?」
男は怪訝な顔をした。
「何言ってんの? ずっと空き地だよ」
帰り道、ふと考えた。
飯田がズレたのか。
それとも、私が。
あるいは、こうして話を読んでいるあなたのほうが、本当は覚えているのではないか。
駅前の角の、あの店を。
[出典:972 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/09/07(木) 13:23:40.14 ID:0cppgHn+0.net]