もう五年以上も前のことになる。
けれど、今でもはっきりと思い出せる。
あの“目”を、あの……どうしても説明のつかないものを。
当時、俺はある設備保全会社に勤めていた。主に下水道の調査や補修を請け負っている会社で、作業の内容は地味で、たいていは暗くて、臭くて、危険だった。
慣れるまでは吐き気もしたが、十年もやっていれば、人間、どんな空間にも順応する。
現場作業に出る日もあれば、資料の整理だけで終わる日もある。だが、あの日は現場だった。調査だった。
場所は郊外の住宅地、開発されてからそれなりに年月の経った町だったが、下水道の老朽化点検で役所から依頼が来た。
当時の記録を読み返すと、その日の対象はΦ二〇〇――直径二〇センチの下水管。人が入れるようなサイズじゃない。
作業はシンプルだった。
マンホールを開け、地上から長いホースを伸ばし、その先に取り付けた小型カメラ搭載のラジコンを走らせる。
カメラはライトつきで、映像はタブレットにリアルタイムで映し出される仕組みだ。
その日も、いつもと変わらないはずだった。
臭いに耐えながらケーブルを調整し、ゆっくりとラジコンを前進させる。水位は中程度で、映像も特に異常なし。
ぬめり、流れ、沈殿物、ヒビ――どれもよく見る光景。
だが、二十メートルほど進んだところで、俺の背中に一瞬で汗が噴き出した。
「……おい、今の見たか?」
画面には、管の上半分に何かが映っていた。
最初は汚れかと思った。けれど、ラジコンが近づくにつれ、輪郭がはっきりしていく。
ピンクの輪郭、真ん丸な目、赤いリボン――
キティちゃんのシールだった。
どう見ても子ども用の、百円ショップやガチャガチャで手に入るようなもの。
それが、縦に並ぶように三枚、下水管の内壁に貼られていた。汚れていない。くっきりと形が残っている。
俺は目を疑った。
なぜ、あんな場所に……?
どうやって……?
作業員仲間の佐々木も、タブレットを覗き込んで無言になった。
「気のせいだよな?」
「いや、はっきり見えてる……なあ、録画してるよな?」
ラジコンを停止させ、角度を変えて確認した。間違いなかった。
キティちゃんのシールが、管の天井近くに、何者かの手によって、しっかりと貼られていた。
「……子どもが貼ったってこと?」
佐々木が言ったが、即座に否定した。
「無理だ。Φ二〇〇だぞ? 成人はおろか、小学生でも入れない。水流もあるし、登れない。そもそも、マンホールからアクセスできる深さじゃない」
その場では、調査を続けるしかなかった。
カメラを前進させたが、以降は異常なし。問題の位置にマーキングをし、現場は終了となった。
だが、頭の中はそれどころじゃなかった。
妙な違和感が、ずっと引っかかっていた。
後日、俺は現場資料を改めて確認した。
その下水管が布設されたのは、昭和の終わり頃。つまり、三〇年以上前。
当然、その間に内部に人が入った記録などない。
メンテナンスの記録も調査のみ。人が入るサイズじゃないのだから、当たり前だ。
では、あのシールは……?
流れてきて、偶然貼りついた?
そんな都合よく、三枚並ぶか?
しかも、管の上部に綺麗に……?
水流の方向に逆らう形で、整列するように……?
そんなはずがない。
誰かが、入った。
わざわざ、貼った。
あの、目立つように。
どうして……?
誰が……?
どうやって……?
報告書をまとめる際、上司に映像を見せた。
その人も黙って数分間眺めてから、ポツリとひとこと。
「これは……役所には“調査不能”って報告しとけ」
「え? でも、証拠もあるし、原因は――」
「いいから。そういうのは、深入りしないほうがいい。忘れろ」
上司の声色に逆らえなかった。
それは、いつもとは違う、本気の「やめろ」だった。
怒ってもいなければ、軽くもない。
妙に……怯えていた。
俺もそれ以上は言わなかった。
作業報告には「途中より障害物により進行不可、映像不明瞭」と書いた。
シールのことは、口外しなかった。
社内でも、あれ以降、現場の名前を出す者はいない。
ただ、ひとつだけ。
あの日、帰る直前に映像を再確認していたとき、妙なことに気がついた。
シールの左端――ほんの少し、陰のようなものが写っていた。
最初は反射かと思ったが、違った。
あれは、目だった。
小さな、真っ黒な目が、シールの裏からこちらを覗いていた。
シールの絵と重なっていて、最初は見逃していた。
でも、たしかに、動いたんだ。
ほんの少しだけ、瞳孔が……絞られるように細くなったのを、見た。
そのあと何ヶ月か、現場に出るのが怖かった。
マンホールを開けるたびに、あの目が覗いてくるような気がした。
下水の中に、何かがいる。
ずっと昔から、そこにいて、たまに……遊んでる。
そう思うと、もう、目を合わせられなかった。
それ以来、俺は現場から離れ、内勤に回してもらった。
理由は聞かれなかった。
上司はただ、静かにうなずいた。
映像は、まだ社内のサーバーに残っている。
消された形跡はないが、誰も開こうとしない。
それは、そこにいる“何か”を、呼び起こす気がして……。
たかがシール。
されど、あれは確かに、誰かが“そこにいた”証拠だった。
下水管の中に、確かに“貼った”手があったのだ。
どれだけ考えても、説明はつかない。
でも、間違いなく、俺は見た。
あの目と、視線を交わしてしまった。
それだけは、もう、どうしても忘れられない。
[出典:407 :本当にあった怖い名無し 警備員[Lv.4][新芽]:2024/11/29(金) ]