俺が小学校六年だった頃の話だ。
あの年の記憶は、今でもやけに湿っている。
夏の終わり、蝉の声が途切れる瞬間があるだろう。あの間が来ると、決まって思い出す。汗とは違う、背中の内側からにじむような濡れた感覚と一緒に。
桜田という担任がいた。四十前後で猫背、口紅だけが異様に濃い女だった。外面は丁寧で、保護者受けは悪くなかったが、教室の中では別の顔を持っていた。怒鳴る。投げる。叩く。責める。理由は曖昧で、基準は日によって変わった。
「どうして信じてくれないの」
そう叫びながらチョークを箱ごと投げるのは珍しくなかった。宿題を忘れた生徒は皆の前に立たされ、教科書で頭を叩かれる。椅子に引っかかって転び、手首を腫らした女子がいたが、桜田は騒ぎになるのを恐れ、口裏を合わせろと言った。
俺たちは子供だったから従った。
半年ほどそんな日々が続いたある朝、教室の扉が乱暴に開いた。
桜田が叫びながら飛び込んできた。
「誰がやった」
声というより悲鳴だった。顔は紅潮し、唇が震えていた。入口付近にいた田村の肩を掴み、返せ、どこにやった、返せと、泣きながら繰り返した。
何を返せと言っているのか、誰にも分からなかった。
教頭と隣のクラスの教師が駆けつけ、桜田を押さえつけて廊下へ連れて行った。田村はその場に崩れ落ち、誰も声をかけられなかった。
それきり、桜田は学校に来なくなった。
翌週、急病で退職したとだけ告げられた。理由も経緯も説明はなかった。新しい非常勤の担任が来て、教室は急に静かになった。女子たちは露骨に安心した顔をしていた。
だが、俺と大野だけは納得できなかった。
「誰がやった」
あれは何だったのか。
教師に聞いても、話は逸らされた。忙しい、忘れろ、くだらないことを考えるな。誰も深掘りしようとしなかった。
数日後、放課後の校舎で、五年の時の担任だった石井先生を見かけた。俺たちは思い切って声をかけた。
石井は一瞬、目を伏せた。何かを考えるように黙り込み、それから静かに言った。
「ここで聞いたことは、外では話すな」
それ以上、説明はなかった。ただ、放送室に来いと言われた。
古い再生機に、一本のビデオテープが入れられた。再生ボタンが押されると、画面は暗転し、ノイズの向こうに見慣れた教室が映った。
俺たちの教室だった。
桜田が怒鳴り、チョークを投げ、生徒に詰め寄る。窓際で一人、笑いながら何かを呟く姿。確かに見覚えのある光景だった。
だが、違和感があった。
画面が切り替わる。窓の外から。天井のすぐ下から。教卓の背後から。
動きは滑らかで、寄る。引く。視線が揺れる。
誰かが、そこに立っているみたいだった。
俺は最初、冗談めかして言った。よくできてるな、と。
大野は何も言わなかった。石井も、ただ画面を見ていた。
ビデオは最後まで再生され、巻き戻された。
下校途中、大野が信号待ちで足を止めた。
「なあ……あれさ」
「何だよ」
「見てた場所、覚えてるか」
言われて思い出した。教室は五階だ。隣に高い建物はない。天井に人が隠れる場所もない。教卓の後ろに、誰かが立てる余地もない。
それなのに、映像はそこから撮られていた。
考えれば考えるほど、おかしかった。
でも、俺たちはそれ以上話さなかった。
忘れることにした。
触れなければ、何も起きない。そう思った。
それから何年も経った。
大人になり、仕事をし、家庭を持った。あの話を思い出すことは、ほとんどなかった。
ただ、夕暮れ時、窓の外を見るときだけ、時々思う。
あのビデオの最後に映っていた、教室の一番後ろの席。
あそこには、誰も座っていなかったはずなのに。
俺は、あの時の光景を知っている。
映像では確認できなかったはずの、細かい動きまで。
いつから知っていたのかは分からない。
ただ一つ確かなのは、
あれを見ていたのは、桜田だけじゃなかったということだ。
そして今も、あの視線は、記録をやめていない。
(了)
[出典:857: 本当にあった怖い名無し 投稿日:2014/01/12(日) 15:54:06.12 ID:aIiX5D7L0]