宮城県の八木山橋って知ってるだろ。
自殺の名所としては割と有名で、地元じゃ洒落にならないくらいの数が飛び降りてるって噂がある。
ただ、俺にとってはあの橋の下に広がる竜ノ口渓谷の方がずっと魅力的だったんだ。地層がむき出しになっていて、川辺には見たことのない昆虫や苔が生えている。足場は悪いし滑る場所も多いけど、大学で地学をかじっていた俺にとっては、格好の遊び場みたいなものだった。
三年前のことだ。まだオカルトなんて興味もなくて、八木山橋に幽霊が出るなんて話も鼻で笑っていた。俺が怪談に関心を持つようになったのは、その日の出来事がきっかけなんだ。
その日も大学の仲間を数人誘って竜ノ口に降りていった。五人組で、俺、榎本、それから三人。榎本はちょうど彼女に振られたばかりで、好きだった女子をグループに呼んでいた。気を引きたかったんだろう。
渓谷に降りるときはいつもルールがあった。カメラの持ち込みは禁止。足場が悪いから川に落ちる奴もいるし、精密機器は危ない。携帯は百円ショップの袋に入れて持ち歩いていた。心霊写真を恐れていたわけじゃない。純粋に安全のためのルールだった。
けどその日に限って、榎本が防水のデジカメを持ってきていた。理由は単純。好きな女子の写真を撮りたかったらしい。撮った写真を送る口実でアドレスを聞くつもりだと、照れ臭そうに言っていた。
渓谷に入っている間は特に何もなかった。俺たちは水遊びをしたり石を拾ったりして、夕方になって引き上げた。自殺者の遺体なんてものを見かけることもなく、むしろただ涼しくて気持ちの良い時間だった。
異変に気づいたのは帰り道に寄ったマックでだ。ハンバーガーを食べながら榎本がカメラを取り出し、撮った写真を順番に確認していた。俺も隣に座って一緒に覗き込んでいた。
数十枚目あたりだったと思う。俺が撮った渓谷の写真に、妙なものが写っていた。川を挟んだ向こう岸の岩の上に、ジーンズ姿の下半身が仰向けに置かれていたんだ。腰から上は岩陰に隠れて見えない。ただ、ジーンズの裾からは白っぽい足が突き出していて、泥や影じゃないことは一目でわかった。
その下の岩肌が、乾いた血のような色をしていた。
一瞬で気まずい空気になった。榎本が「何で気づかなかったんだ!」と俺を責め立てた。俺だって撮った覚えはあるのに、そんなものは肉眼では見えなかった。お互いに責任を押し付けあって、女子が怯え始めたところで「とりあえず警察に連絡しよう」と誰かが言った。
榎本が通報した。警察は「後日確認に行く」と言うだけで、写真の話も生返事だった。俺の電話番号も代表者として控えられた。
三十分ほど経った頃、榎本に電話がかかってきた。外に出て応対していた榎本が戻ってきたとき、顔面蒼白になっていた。警察からの連絡で「捜索したが遺体はなかった」という話だったらしい。
俺たちはほっとしたような、逆に不気味なような気持ちで沈黙した。だが榎本だけは違った。「絶対に屍体だった!」と狂ったように主張を繰り返し、写真を指差して叫んだ。足もある、血もある、見間違えるはずがないと。女子は泣き出し、場の空気は最悪になった。
「明日になれば警察がちゃんと探す。今日は帰ろう」そう言って俺が強引に解散にした。榎本は最後まで納得しなかったが、車もないし一人で行動できる性格でもなかったから、俺は放って帰った。
翌日の午前中、俺の携帯に警察から電話が来た。「ご迷惑をおかけしました。先ほど遺体を回収しました」と。あの一言に心底安堵した。榎本と気まずいまま別れていたが、これで誤解も解けるだろうと思ったんだ。
ただ、気になることがあって質問した。「昨日は一度確認に行ったんですよね?」電話口の警官は少し間をおいて答えた。「昨日は確認に行っておりません」
耳の奥がぞわぞわして、背中が冷たくなった。じゃあ昨日榎本にかかってきた電話は何だったんだ? あれは確かに「警察です」と名乗っていたはずだ。
さらに妙なのは、俺が「なぜ榎本に直接連絡しなかったんですか」と尋ねたときの答えだ。警官は「榎本さんにかけましたが、出ませんでした」と言った。
榎本は出なかったんじゃない。確かに応答して、外で電話していた。顔を青ざめさせて戻ってきた。その記憶は間違いなく俺の中に残っている。
その日の夕方、榎本の遺体が見つかった。竜ノ口渓谷の、例の岩の上だ。
彼は前日別れたときと同じ服装をしていた。ただズボンはジーンズではなかった。だが、説明を聞いた瞬間、頭に浮かんだのは前日の写真に写っていたあの下半身の姿と全く同じ死に様だった。
背骨が粉々に砕け、上半身は岩の向こうに垂れ下がっていたらしい。
つまりあのとき俺たちが写真で見たのは――榎本の遺体そのものだったのか。
けれど時系列が合わない。俺たちが写真を見た時点で榎本は生きていたはずなんだ。だって隣に座っていたんだから。
さらに奇妙なのは、榎本のデジカメも携帯も、どこにも見つからなかったことだ。通話記録も残っていない。つまりあの「警察からの電話」そのものが存在していなかったことになる。
榎本の遺体が見つかった場所もおかしい。橋からかなり離れているのに、死因は高さ百メートルから落下したような損傷だと言われた。どうやってそこまで飛んだのか説明できない。
俺たちがあの日見つけたのは一体何だったのか。榎本の死とどう繋がるのか。考えれば考えるほど頭の中がぐらついて、今でも思い出すと吐き気がする。
ただ一つ言えるのは、あの写真を最後に榎本の姿を撮ったデジカメは消え失せ、今もどこかで、冷たい川の音を背に沈んでいるのかもしれないということだ。
[出典:1:2011/02/21(月) 22:40:27.32 ID:EdUs4ttB0]