数年前の古本屋での話。
友人が本を売りたいと言うので、大きな古本屋に付き合うことになった。神保町のような古書店ではなく、漫画から写真集まで幅広く揃えたチェーン店だ。
友人は漫画本を山のように持ち込んでいて、査定が終わるまで時間がかかるという。古本屋自体に馴染みがなかった俺は、広い店内を一人で物珍しさにあちこち歩き回ってみることにした。
オカルト系の面白い本でもないかと、超常現象の棚を眺めていたときのことだ。ふと目に入ったのは、背表紙が棚の奥向きになっていてタイトルのわからない一冊。興味を引かれて手に取ってみると、どうやら「落語を楽しもう」といった感じのタイトルだった気がする。
開いてみると、文字が大きくイラストも多めで、小学生向けの本らしかった。載っていたのは『じゅげむ』や『饅頭こわい』などの有名な噺ばかりだったが、挿絵が妙に味わい深く、ついページをめくり続けてしまった。
その中で『地獄のそうべえ』の箇所を見ていると、余白に「こわい」と走り書きが残されているのを見つけた。『地獄のそうべえ』といえば、主人公のそうべえが地獄に落ち、そこへ送り込まれた歯医者、医者、山伏らと共に、鬼に食べられそうになるたびに自分たちの職業スキルを活かして窮地を切り抜けるという、少し奇妙でコミカルな噺だ。
【原作】三代目桂米朝 地獄八景亡者戯
一見、何でもない古い本に見えたけど、中を開くとその余白には不気味で奇妙なやりとりが綴られていた。子供の頃、地獄の業火や鬼の描写がやたらと怖かった記憶が蘇るコメディ作品だったが、その余白には過去の読者たちの何かしらのやり取りが書き込まれていた。
最初に目に入ったのは赤いペンで書かれた文字。
「困っています。よろしくお願いします」
そしてその文中の「じごく」という単語に丸がついている。その下には掠れた黒い文字で「リョウカイ」と書かれ、その下に「オワリ」。さらに赤ペンで「有難うございます」とだけ添えられている。なんだこれ、と思いながらページをめくると、また同じようなやり取りが現れる。
「お願いします」
「リョウカイ」
「オワリ」
「感謝致しますお世話になりました」
書き込みは複数ページに渡り、赤い文字の筆跡は薄いものや太いもの、震えた文字や達筆なものなどバラバラだったが、「リョウカイ」と「オワリ」の部分だけは一貫して掠れた黒文字で、無機質な印象を受ける書体だった。
「頼みます」
「リョウカイ」
「オワリ」
「どうか宜しくお願いします」
「リョウカイ」
「オワリ」
「どうも有難うございました」
そうした謎のやり取りを何度も目にしていくうち、物語が終わるあたりで一枚の紙が本に挟まれているのを見つけた。黄ばんでいて荒い画質の写真には学生服を着た少年がぎこちない表情で写っている。写真の下には写植で書かれた名前らしきものが見える。その名前の意味するところが何なのか、考えが及ばない。
そしてまた本の余白には走り書きが一言。「お願いします」。やはり文中の「じごく」に丸がついているが、今回はその下に「リョウカイ」も「オワリ」も見当たらなかった。
そのとき、友人から会計が終わったとの連絡がケータイに入った。なんとも言えない気味の悪さを感じながら、挟まっていた紙はそのままにして、本を元の棚へ戻した。何だったんだろう、あれは。後ろを振り返ることもなくその場を離れた。