職場の同僚から聞いた話だ。
彼女がまだホテルプランナーとして働いていた頃のこと。十月に挙式予定の新郎の父親が亡くなり、お通夜に出席した帰り道だったという。
新郎一家は、長い闘病生活の末だったこともあり、悲しみの中にも覚悟があったようだ。結婚式は予定通り行うとの意思が伝えられたものの、そこに至るまでの段取りを思い、彼女は気持ちが重かった。
お通夜の会場は自宅から高速を使って一時間ほどの距離にあった。時計の針は夜十時を回っており、車内にはラジオの音だけが響いていた。高速入口が二つある田舎町。ひとつは家路に通じる道、もうひとつは山越えに続く別ルート。慣れた道だったはずなのに、うっかり入口を間違えてしまった。
引き返すことはできず、そのまま山道を進む。ナビは示していたが、道幅はどんどん狭くなり、車体が山肌の雑草を擦る音が続いた。片側は草むらに覆われた急斜面。対向車が来たらどうするか、そればかりが頭を占めていた。
暗闇の中、携帯は圏外。見渡す限り明かりもない。彼女は恐怖を紛らわせようと、ひたすら歌を歌い続けた。そのとき、不意に目の前を通り過ぎる人影。水色のトレーナーを着た五十代くらいの男が、静かに自転車を漕いでいた。
不自然すぎた。
ここは山奥で、自転車が通れる道幅ではない。それに暗闇の中、なぜあんなに鮮明に見えたのか。顔がぼんやりとしていたこと以外、体格も服装もはっきり覚えている。それを思い出した途端、全身が凍りついた。
さらに追い討ちをかけるように、車内から「ワン」という低い犬の鳴き声が響いた。アクセル付近からだ。車には犬などいない。だが、不思議と恐怖心は湧かなかった。むしろ、その音に守られているような気さえした。
やがて山道は緩やかに下り、町の明かりが視界に入る。道幅が広がり携帯の電波が復活すると、ようやく息をつけた。自宅に着いた彼女は、あの水色の男と犬の鳴き声を思い返していた。山中に人がいるはずがない。だが、その姿が新郎の父親のように思えてならなかった。
幼い頃に飼っていた犬のトムのことも思い出した。亡くなったはずのトムが、あの山道で自分を守ってくれたのではないか――。そう考えると、恐怖は不思議な安堵に変わっていったという。
今でも彼女はあの体験を思い出すたびに、新郎の父親の冥福と、トムへの感謝を祈るのだという。