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短編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2026

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夜中の作業というものは、時間の感覚を鈍らせる。

針がどこを指しているのか分からなくなり、疲労と集中が同じ重さで混ざり合う。
あの夜も、たぶんそういう状態だった。

スパコミ前日の夜、私は友人Aの部屋に泊まり込み、コピー本の製本を手伝っていた。
Aは一人暮らしで、よくあるワンルームだ。作業机の上にはコピー用紙の束、ホチキス、原稿。床には裁断済みの紙が広がり、空気はインクと紙の乾いた匂いで満ちていた。

夜中を過ぎていた。
私たちはほとんど口をきかなかった。
修羅場続きのAと、移動の疲れが抜けない私。どちらも会話をする余裕がなく、ただ手を動かしていた。

飲み物は机から少し離れた小さなテーブルに置いていた。
作業中に倒すと困るから、という理由だった。
二リットルの烏龍茶のペットボトルと、コップが一つ。
喉が渇いたら立ち上がって行き、その場で飲む。暗黙の了解のような取り決めだった。

作業を続けるうちに、喉が乾いた。
けれど立ち上がるのが億劫だった。
背中を丸めたまま、私は斜め後ろにあるテーブルの位置を意識していた。
視線を向けるほどでもない。ただ、そこにあると分かっているものを、頭の片隅でなぞるような感覚だった。

次の瞬間、視界の端に動きが入った。

黒いものだった。

壁でも床でもない、何もない空間から、突然それは現れた。
形は手だった。
人の手の形をしている、と言うより、手としか言いようがない輪郭だった。

それは躊躇なく伸び、横からペットボトルを叩いた。

ゴドッ、という鈍い音。
ペットボトルがテーブルから落ち、床に転がった。

一瞬、何が起きたのか分からなかった。
目だけが先に動き、体はそのまま固まっていた。
テーブルの下には、確かに烏龍茶のボトルが倒れている。

音は現実だった。
倒れた位置も現実だった。

ただ、そこに至る過程だけが、現実から外れていた。

私は何も言えずにいた。
視界に残った黒い像が、消えずに張り付いていた。

そのとき、隣から声が上がった。

「すごい!」

明るく、弾んだ声だった。
場の空気と噛み合わない、浮いた調子。

「私、今の見た? たぶん超能力」

Aは笑いながら続けた。

「喉渇いたなって思ってさ。でも歩くの面倒で。ずっとお茶見てたんだよ。そしたらさ、来た」

来た。
そう言って、倒れたペットボトルを指差した。

Aは興奮していた。
その言葉のどこにも、手の話は出てこなかった。
叩いたものも、伸びてきたものも存在しない。
ペットボトルは「飛んできた」ことになっていた。

私は返事ができなかった。
喉が鳴る音だけが、自分の耳にやけに大きく聞こえた。

「……ないよね」

少し間を置いて、Aはそう言った。
苦笑しながら、さっきの言葉を自分で引っ込める。

「超能力とか。疲れてるし」

そうして話は終わった。
私たちは何事もなかったように烏龍茶を飲み、作業を再開した。
コピー本は完成し、その夜はそれ以上、何も起きなかった。

ただ、私は自分が見たものを口にしなかった。
言葉にする場所が、見つからなかった。

黒い手は、触れたら温度がありそうなものではなかった。
質感も、重さも、分からない。
ただ、動きだけがやけに正確だった。
狙いを定め、力を加え、物を落とす。
その動作だけが、頭から離れなかった。

Aとはその後、自然に疎遠になった。
連絡先も、今は分からない。
確かめる術は、もうない。

今でも、あの夜を思い出すことがある。
あの手が、誰に向けて伸びたのかを考える。

喉が渇いていたのは、Aだったのか。
立ち上がるのが面倒だったのは、私だったのか。
それとも、欲していたのは、人ではなかったのか。

同じ瞬間に、同じ方向を見ていたはずなのに、
私たちは違うものを見た。

いや、
違うものを見たと、誰が決められるのか。

今も分からない。
ただ一つ確かなのは、
あの夜、空中から何かが伸び、烏龍茶を落としたという事実だけだ。

それ以外は、思い出すたびに形を変える。

(了)

[出典:390 :恐い1/2:2013/05/07(火) 20:38:52.08 ID:jG0hYg+O0]

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