研修医の俺が当直明けで病院を出たのは、冬至も近い十二月の早朝、午前六時だった。
三十六時間連続の勤務。救急搬送が立て続けに入り、処置室とナースステーションを何度も往復した。心肺停止の患者が一人いた。蘇生処置は規定通り行われ、記録も抜けなく書いた。書類を提出した頃、窓の外がようやく白み始めていた。
ロッカーで着替え、エレベーターで一階へ降りる。自転車置き場まで徒歩三分。その距離が、異様に遠く感じられた。
外は凍えるような寒さだった。吐く息が白く、街灯の光が路面に貼りついている。自転車に跨がり、無意識にペダルを漕いだ。アパートまでは十五分ほど。この時間帯は人も車もほとんどない。信号に引っかかることもなく、ただ前に進んだ。
部屋に戻ると、エアコンの表示は消えていた。
ドアを開け、玄関を抜け、六畳の居間に足を踏み入れた瞬間、鼻腔の奥に甘ったるい臭いが引っかかった。腐りかけの果物のような、発酵した何かの臭い。だが、その時は深く考えなかった。疲労で感覚が狂っているのだろうと、そう処理した。
誰もいないはずの部屋は、異様なほど静かだった。電気をつけ、鞄を床に置き、コートを脱ぐ。シャワーを浴びる気力は残っていない。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、一気に飲み干した。テレビはつけなかった。音を増やす気になれなかった。
寝室代わりにしている隣の四畳半へ行こうとした時、気づいた。
いつもなら聞こえるはずの音が、何ひとつない。外を走る車の音も、上階の生活音もない。建物全体が、呼吸を止めているようだった。
引き戸に手をかける。
引いた。半分ほど開いたところで、室内に視線を向けた、その瞬間だった。
人影があった。
布団の脇に、中年の男が膝をついて座っていた。
声は出なかった。悲鳴どころか、呼吸そのものが止まった気がした。体が動かない。後ろに下がることも、戸を閉めることもできず、ただその場に立ち尽くした。
男は青い手術着を着ていた。
目を伏せ、短く刈り込まれた髪は汗で濡れている。だが、その手術着は明らかにおかしかった。袖口から胸元にかけて、黒ずんだ赤が広がっている。新しい血ではない。時間を置いて乾いた色だった。
なぜ、そんな格好の男が、俺の寝室にいるのか。
考えようとしたが、思考がうまく繋がらない。幻覚という言葉が浮かびかけて、すぐに消えた。視界が、あまりに鮮明だった。
どれほどの時間が経ったのか分からない。
やがて、男がゆっくりと顔を上げた。
眼窩の中に、瞳孔がなかった。
白く濁った膜のようなものが、眼球全体を覆っている。視線がこちらに向いているはずなのに、見られている感覚がない。その不在が、耐え難かった。
男の口角が、わずかに引きつった。
笑みと呼べるほどの形ではない。ただ、動いた。
「……判定、不合格……」
擦れた声だった。喉の奥で、何かが引っかかっているような音。
「……やむを得ない……」
意味を考える前に、体の奥が冷えた。
何の判定なのか。誰が下した判定なのか。問いは浮かんだが、言葉にはならなかった。声帯が、他人のもののようだった。
男はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、そこに座っていた。
俺は反射的に両手を握りしめた。理由はない。そうするしかないと思った。頭の中に浮かんだ動作が、それだけだった。深呼吸。音を立てないように、ゆっくりと、何度も。
気づくと、室内の空気がわずかに温んでいた。
恐る恐る目を開けると、布団の脇に男の姿はなかった。臭いも、湿気も、何も残っていない。
その朝、俺は四畳半に入れなかった。
居間の床に横になり、目を閉じたが眠りは来なかった。昼まで、ただ時間が過ぎた。
数日後、同期の医師にこの話をした。
彼は困惑した顔で聞いていたが、特にコメントはなかった。部屋を見に来た者もいたが、何も見つからなかった。甘い臭いを感じた者はいない。
一週間後、俺は呼び出された。
夜間に救急搬送された患者への投薬について、確認があるという。詳細はその場で語られなかった。結果だけが告げられた。死亡。遺族は刑事告訴を検討中。
帰り際、誰かが言った。
「判定は、不合格だったらしい」
それが誰の言葉だったのか、覚えていない。
寝室で見た男が、何だったのか。
失敗を告げに来た存在だったのか。結果を確認しに来ただけだったのか。あるいは、ただ、そこに座っていただけの何かなのか。
俺が見たから、そうなったのか。
そうなるから、見えたのか。
理由を考えるほど、輪郭は崩れる。
ただ、あの朝、最後に聞いた言葉だけが、今も耳の奥に残っている。
「やむを得ない」
それが、誰に対しての言葉だったのか。
その答えだけが、まだ宙に浮いたままだ。
(了)