私は蜘蛛が嫌いだ。
嫌悪という言葉では足りない。皮膚の内側を小さな牙で引っかかれるような、理由の定まらない恐怖。考えるだけで喉が粘つき、口の奥が勝手に閉じようとする。
理由は分からない。
正確に言えば、分からないままにしてきた。
記憶は、兵庫県のSという地域にあった古いマンションから始まる。三棟並んだ建物の裏はすぐ山で、湿気が多く、虫が異様に多かった。ガガンボが窓にぶつかり、蜘蛛は放っておくと一晩で巣を張った。
私は八階に住んでいて、同い年の子どもが何人かいた。その中に、久二くんという男の子がいた。一階の奥の部屋に住んでいて、影が薄く、外遊びにはあまり出てこない。月に一度くらい、気が向いた時だけ一緒に遊ぶ子だった。
ある日、私は一人で久二くんの家を訪ねた。なぜそうしたのかは覚えていない。誘われた記憶も、自分から行こうと思った記憶もない。ただ、気づいたら一階の暗い廊下を歩いていた。
部屋は昼でも薄暗かった。湿った匂いがして、畳が少し沈む。居間でミニカーを転がして遊んでいる最中、私は無意識に視線を上げた。
箪笥の上に、見覚えのない玩具があった。
プラスチック製のレールが複雑に絡まり合い、立体的な迷路のような形をしている。市販品には見えなかった。どこか歪で、完成していない感じがした。
「あれ、なに?」
そう聞いた私に、久二くんは少し眉をひそめて言った。
「壊れてるんだよ。和也くんが壊したじゃないか」
和也。それは私の名前だった。
冗談だと思えなかった。初めて来た家だ。あの玩具も、触った覚えがない。私は否定しようとしたが、言葉が出なかった。頭の中で、自分の記憶がぐらついた。
久二くんの母親が台所から顔を出した。
「そうよ。和也くんが触って壊しちゃったの。だからもう遊べないの」
三人の言葉が、ぴったり重なった。
私は間違っているのかもしれない、という感覚が、幼い頭に初めて生まれた。
居心地の悪さに耐えきれず、私は家に帰った。両親には話さなかった。言葉にした瞬間、現実になる気がした。
ほどなくして、私たちは東京へ引っ越した。
引っ越し後、私は虫好きの子どもになった。誕生日にもらった『ファーブル昆虫記』を何度も読み返し、虫取り網を持って野原を走り回った。昆虫の名前も、生態も、知るほどに面白くなった。
ただ、蜘蛛だけはだめだった。
図鑑のページを見るだけで、舌の奥が重くなる。姿を想像すると、口の中に何かがある気がして、思わず唾を吐き出したくなった。
理由は思い出せなかった。
大学を出た頃、実家に帰省した際、母と昔話をした。あのマンションの話題になり、母は笑いながら言った。
「お前、小さい頃、本当に蜘蛛が嫌いだったよ」
夜中に突然泣き叫び、布団から這い出して床を転げ回ったという。夢を見ている様子ではなく、何かを避けるように必死だったらしい。
私は覚えていなかった。
「久二くんって子、いたよね」
そう聞くと、母は少し考えてから答えた。
「いたね。一階の子でしょ。裏が山でさ、大きな蜘蛛が出るって有名だった」
その言葉を聞いた瞬間、頭の奥で何かが外れた。
箪笥の上の歪な玩具。
床に倒れ込んだ自分。
久二くんの声。
「壊した、壊した、壊した。許さない」
肩に手を置く母親の姿。
「どうしたら和也くんを許せる?」
久二くんは、泣きながら笑っていた。
「じゃあ……蜘蛛」
その先の記憶は、途切れている。
黒い塊を持って近づいてくる大人の手。
唇に触れた、冷たく湿った感触。
口の中が閉じなくなった感覚。
そこから先は、はっきりしない。
食べたのか。
押しつけられただけなのか。
叫んだのか、声が出なかったのか。
分からない。
ただ、確かなのは、あの日を境に、私は蜘蛛を考えるだけで口の奥に違和感を覚えるようになったことだ。
骨の内側を、細い脚が這っているような感覚。
蜘蛛が怖い理由を、私は断言できない。
それでも時々、ふと思う。
もしあれが事実ではなく、誰かにそう信じ込まされた記憶だったとしたら。
その恐怖は、今も私の中で生き続けている。
口の中に、まだ何かがある気がしながら。
(了)