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中編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2025

チョコを食べなかった日のこと n+

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その話の舞台は、姉がまだ独身で働いていた職場だ。

語ってくれたのは、私の姉……ではなく、姉の友人だった人物のことを姉から聞いた私であり、ここに書くことはすべて、私が姉から受け取った形の「伝聞」に過ぎない。

冬が長引いた年で、弾力を失ったような灰色の雲が、何日も頭の上に居座っていた。
建物の廊下には暖房の匂いがこもり、乾いた紙と古いワックスの甘い臭気が混ざり、鼻の奥に膜を張るようにまとわりついたという。
朝の光は弱く、蛍光灯の白い光が床を冷たく舐めていた。

姉の隣の席には、Yさんという女性がいた。
明るく、よく笑い、化粧も派手ではないが、目元の印象が強く残る人だったらしい。
姉はその笑顔を「温度のある光源みたい」と形容したことがある。
人の心に平たく差し込む、柔らかな光。
それが、後になってこんな形で記憶されるとは、誰も思わなかった。

二月の初旬、姉とYさんは、勤務後に連れ立ってチョコレートを買いに出かけた。
夜風は刺すように冷たく、吐く息がすぐ白くなり、アスファルトの匂いまで冷えて硬く感じられたという。
店内に入ると、暖房でわずかに溶けかけたカカオの香りが漂い、指先に残った冷気を絡め取っていった。

Yさんは、義理チョコ以外にひとつだけ、箱の質感が明らかに異なるものを手にしていた。
表面が薄いワニ革のように波打ち、触れるとぬるりと温度を返してくる──姉はその感触を今でも思い出すと言う。
「Yちゃん、それ……誰か本命がいるの?」
問いかけると、Yさんは少しだけ間を置き、細い頷きを返したらしい。
囁くような声で「まだつきあってはないんだけど」と続け、指先でその箱をすべらせながら視線を伏せた。
その横顔の線が、仄かに震えていたと姉は言った。

それが、姉の記憶に焼き付いた最初の小さな揺らぎだった。

二月一四日。
仕事場に甘い匂いが満ちる日だ。
紙袋の擦れる音、包装紙がこすれる乾いた音、笑い声。
その中で、姉とYさんは、前日に笑い合いながら選んだ同じチョコを、お互いへ差し出して笑った。
贈り物同士が軽く触れたとき、箱の端が小さく鳴った。
それが、やけに湿った音に聞こえた気がしたと、姉は後になってこぼした。

忙しさに追われて、姉はキャビネットの整理中にYさんの机に足をぶつけてしまい、机上にあったチョコがゆっくりと傾き、真下の雑巾バケツへ沈んでいった。
水が跳ね、甘い匂いが一瞬むっと立った。
拾い上げた箱はふやけ、角は崩れ、表面の紙が薄皮のように剥がれ落ちていたという。

姉は、それを捨て、自分が持っていた同じものを机に置いた。
「どうせ私は甘いものが苦手だから」と。
その判断が、どれほどの重さを持つことになるのか、まだ誰も知らないままだった。

翌日、Yさんが姉に尋ねた。
「ねえMちゃん、チョコ……食べなかったの?」
その言葉の抑揚は普通で、目線もふつうで、表情に陰りもなかったと言う。
なのに姉は、ほんの一瞬だけ背中に冷たい膜が張りつくような感覚を覚えたらしい。
まるで、部屋のどこかで水気を含んだ何かが、微かに揺れたような。

姉は軽く笑ってごまかした。
Yさんの声は、どんな感情にも寄せられない、温度のない響きを持っていたという。

──そして、その翌日。
Yさんは、自宅で亡くなっていた。

服毒。
遺書なし。
前日までと変わらぬ様子で働き、声を交わし、その翌朝には戻らぬ人となっていた。
姉はしばらく何も食べられず、胃の底に氷を流し込まれたような状態が続いた。

一年後、姉は結婚し、妊娠していた。
心の傷が完全に癒えたわけではないが、日々の暮らしに紛れて呼吸の深さを取り戻しつつあった。
それでも、季節が巡り、二月が近づくと、姉の顔色は再び曇り始めた。
頬の血色が薄れ、眼窩の影が深まり、指先を合わせる癖が戻った。
それが何を意味するのか、私はその時まだ知らなかった。

姉が口を開くまで、かなりの時間がかかった。
唇の端が乾き、指で何度もこすり、吐く息が細く震えていた。
ついに絞り出すように漏れた声は、私の背中を冷たく撫でる響きを持っていた。

「……Yちゃんね、亡くなる前の日、Mの旦那さんに告白してたんだって」

姉の手が、膝の上で硬く絡まった。
指の関節が白く浮き上がり、その沈黙の奥に、何か軋む音が潜んでいるように思えた。

その先を聞くのは、どうしようもなく嫌な予感がした。
けれど、もう耳を塞ぐことはできなかった。

姉の声は、そこから先、さらに細くなった。

「『このままじゃ、自殺するかMを殺すか、どっちかしてしまいそう』……そう言われたって」

暗がりで何かが軋んだような音が、私の胸の奥で微かに鳴った。

Yさんの死が、偶然の自死ではないとしたら──
あの水に落ち、姉が取り替えたチョコの箱は──

姉は言った。

「……自殺だったら、まだよかったのに」

その声の震えだけが、やけに鮮明だった。

Yさんの死から一年が過ぎた二月。

姉は妊娠で身体が重くなり、呼吸ひとつにも微かな音が混じるようになっていたらしい。
暖房の効いた部屋でも指先が冷え、毛布の上から腹を撫でる動作がゆっくりと慎重になった。
その変化を私は隣で見ていたのに、姉の内側で何が育っていたのか、本当は何も分かっていなかった。

ある夜、夜更けの静寂が部屋に沈んでいた時、姉はぽつりと告げた。
「……もう一度、聞いてほしいことがあるの」
声が妙に乾いていた。喉ではなく、胸の奥から擦れて出てくるような音だった。

姉が話し始めたのは、「あのチョコ」のことだった。

沈んだ調子で語られる断片は、私の想像よりもずっと細く長い影を引いていた。
Yさんが亡くなる前の日──姉の夫(当時は恋人)が帰宅した時、コートの繊維から微かに異臭がしたらしい。
甘いのに、どこか鉄の匂いを含んだような、鼻の奥に刺さる匂い。
姉はその違和感を、その時は「店の匂いでもついたのかな」と流したという。

しかし、その日の夜、夫は重い表情で告白した。
Yさんから突然呼び止められ、チョコの箱を差し出され、言葉を落とすように「好きなんです」と伝えられた、と。
その箱のリボンは、わずかに湿っていたらしい。
冬の外気で結露したのではない、どこか生温い湿り気。
夫は触れた指先にひやりとしたものを感じ、思わず距離を取ったという。

Yさんは、笑っていたそうだ。
普段と変わらぬ、柔らかな笑み。
だが、その頬の筋肉の動かし方が「外側」だけで、目の奥が完全に沈んでいたと夫は話した。
暗闇を背負っている顔。
泣き疲れた後、その涙ごと拭い忘れたような沈み方。
その表情が夫の脳裏に焼き付き、帰り道も頭から離れなかったらしい。

姉がそれを聞いた瞬間、胸の奥が詰まり、空気の温度が急に落ちたという。
暖房はついているのに、耳の裏に冷たい汗が伝い、足元の床がまるでよく磨かれた氷のように感じられたと。
その違和感をうまく言葉にできず、姉はその夜じっと壁を見つめ続けていた。

翌朝、Yさんが亡くなったという知らせが届いた。

──そのとき姉の脳裏に浮かんだのは、あの言葉だった。

「Mちゃん、チョコ……食べなかったの?」

自分が取り替えたチョコ。
Yさんが告白前に持っていた箱。
湿ったリボン。
沈んだ目。
甘さに混じる鉄の匂い。

これらが一瞬で結びつき、姉の背骨をひやりと撫でた。
だが、姉は自分に言い聞かせた。
「考えすぎだ」と。
「そんなわけない」と。

一年後──
その「考えすぎ」が、妊娠によって揺らいでいった。
姉は自室に座っているだけで、背中のどこかに目を感じるようになったと言う。
窓の外からではなく、部屋の隅からでもなく、もっと近い場所から。
誰かがじっとこちらを覗き込むような気配。

姉の夫は気づいていたのだろうか。
姉が時折、同じ方向を見つめ、瞬きの間隔が妙に長くなることに。
あるいは、夜中、寝息が乱れ、夢の中で何かを避けるように手を動かしていることに。
しかし彼は何も言わなかった。
言えば壊れてしまう何かを恐れているように。

姉は次第に、Yさんが亡くなった「翌日のYさんの言葉」を繰り返し思い出すようになった。
「食べなかったの?」
その声の調子。
息の温度。
言い方の柔らかさ。
すべてが、今思えば奇妙だったという。

「だって……Yちゃんは、そのチョコが“どっちのチョコ”なのか、どうして分かったの……?」

姉の問いは単なる疑念ではなく、喉の奥で燃える小さな炎のようだった。
それが燃え尽きる前に、真実を掴まねばならないという焦りのように揺れていた。

姉は自分の話を終えた後、深く息をついた。
その吐息は長く細く、消えかけた火が最後に上げる煙のように頼りなかった。

「ねえ……」
姉は私に向き直った。
「もし、あれが本当に交換じゃなかったら……どうなるのかな」

私は答えられなかった。
喉が張りつき、唾を飲み込む音さえ重く響いた。

姉は、腹を押さえて小さく呟いた。

「ねえ……もし私があの日、あのままチョコを捨てて帰っていたら……Yちゃんは、誰のチョコを“見ていた”んだろうね……?」

部屋の空気が、ふっと揺れたように見えた。

それは、冬に閉ざされた窓の隙間から吹き込む風のせいだったのか。
それとも──
姉の言葉に呼応する何かが、その場にいたのか。

私は、どちらとも言えなかった。

姉があの夜、私に語った言葉は、その後もしばらく耳の奥に沈んだまま離れなかった。

だが姉にとっては沈むどころか、日々、体温を持って膨らみ続けていたらしい。
その証拠のように、妊娠中であるにもかかわらず、姉の眠りは浅く、ふとした物音にも身をこわばらせるようになっていった。

ある夜……風のないはずの時間帯に、姉の家の廊下を「ぴちょ……ぴちょ……」と滴る音が伝ってきたという。
水の音にしては乾いていて、しかし足音にしては湿っている。
肉と床のあいだに薄い液体が挟まったような、形の定まらない音。
姉が夫を起こすと、夫にはその音は聞こえなかった。
だが姉が耳に手を当てれば、音ははっきりしていったという。

その時、姉はひとつ思い当たったことがあった。
あの──水に落ちたチョコの箱。
ふやけた紙。
濡れた甘い匂い。
それが皮膚の裏側で再発しているようだった。

翌日、姉は職場時代の同僚に連絡を取った。
Yさんの机に置いた自分のチョコ……あの出来事について、少しでも記憶の断片を拾いたかったのだろう。
だが、同僚はこう言った。

「……え? あれ、Yちゃん、自分で片づけてなかったっけ? 『落としちゃったから捨てた』って言って……」

姉の呼吸が、一瞬止まったという。
自分が置いたはずの箱。
湿った水を吸い、形を保っていた自分のチョコ。
それがYさんの口から「落として捨てた」と語られている。

ならば──
Yさんが机で見たのは、どちらの箱だったのか。

そして、あの問い。
「Mちゃん、チョコ……食べなかったの?」

あれは、誰に向けての言葉だったのか。
何を“確認”したかったのか。

姉は電話を切った後、しばらく動けなくなったという。
腹を抱えたまま、呼吸の間隔が一定にならず、浅い息を重ねるたび、喉に砂が溜まっていくような感覚が続いたと。

その夜、姉はひとりで寝室にいた。
夫は残業で遅くなると言っていた。
部屋の明かりは暖色で、壁紙の模様さえ柔らかく揺れるように見えたという。

だが、空気に“温度”がなかった。
暖房がついているのに、熱が肌に触れない。
目を閉じれば、まぶたの裏を冷たい指でなぞられるような感触。

姉は、ゆっくりと眼を開いた。
廊下の先が、やけに暗い。
灯りの境目の、その奥。

そこから──
「ぴちょ……」
あの音が近づいてきたという。
乾いた水の落ちる音。
湿った足音。
境界のない、形を持たない響き。

姉は布団の端を掴み、腹の子を守るように抱え込んだ。
だが、足音は止まらなかった。

ぴちょ……ぴちょ……
ひとつ進むたびに、足音が床に吸いつく。
まるで濡れた足裏を、板の上にゆっくり押しつけるような。

そして、寝室の入り口に影がひとつ立ったという。
実際には、ただ光が弱まっただけなのかもしれない。
姉はそう自分に言い聞かせようとした。
だが、動悸の速さはどうにもならなかった。

影は、肩幅が細かった。
髪が肩にかかり、その端が濡れて垂れているように見えた。

その瞬間──
姉の耳に、あの日と同じ声が触れた。

「……Mちゃん、まだ、たべてないの?」

濁りのない声。
表情の見えない優しさ。
それらが全部、浮ついたまま宙に固定されていた。

姉は悲鳴を上げようとしたが、喉が閉じたように音が出なかった。
呼吸の代わりに、腹の奥がぎゅっと収縮したという。
胎動ではない。
別のものが、内側に向かって伸びてくる感覚。

影は動いた。
近づくのではなく──
姉の真正面に、最初からいたかのように“置き換わった”。

その瞬間、姉の視界いっぱいに、濡れたリボンの赤だけが広がったと。
甘い匂いに混ざる鉄の気配が、空気を満たした。
喉の奥で息が絡み、視界の輪郭が溶けた。

次の瞬間、姉は夫に揺り起こされていた。
廊下に人影などなかった、と夫は言った。
ただ姉が激しく震えていたのを見て、声を荒げながら抱き寄せたらしい。

姉は、息を整えるまで長い時間が必要だった。
夫が持っていたコートから──
あの日Yさんに告白された後と同じ匂いが、微かに漂っていたという。
鉄と甘さを混ぜたような、湿り気のある残り香。

姉はそれに気づきながら、言葉を飲み込んだ。
もう、誰にも確かめようがないと知っていたからだ。

翌朝、姉は私に言った。
その声は、もう震えていなかった。
ただ静かで、深く、どこかで覚悟を決めた響きを持っていた。

「……ねえ。もしね。
 あの日、交換したのが本当に“私の”チョコじゃなかったとしたら──
 Yちゃんは、自分のチョコがどこに行ったか……ずっと、探してるのかもね」

私は息を呑んだ。
姉は腹の上にそっと手を置いた。
優しい触れ方だったが、その指先だけが冷たく見えた。

「……食べていないものを、探してるのかもしれない」

それは、誰の身体の中なのか。
どこの家にあるのか。
どの心に沈んでいるのか。
姉は答えようとしなかった。

ただ、微かに笑った。
その笑みだけは、Yさんのものに、どこか似ていた。

──この話は、私が姉から聞いた伝聞にすぎない。
だが今でも姉は、二月になると家中の甘い匂いに敏感に反応する。
チョコレートを口に入れることは、決してしない。
そして夜、廊下を通るときは、必ず足元を見ながら歩いている。

ぴちょ……
ぴちょ……

その音が本当にあったのか、私には分からない。
ただ、姉の記憶の奥では、今もどこかで続いているのだろう。

捨てたはずのチョコの箱は──
いったい、どちらのものだったのか。
その答えだけが、今も空白のまま残っている。

[出典:707 :あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/12/01 21:24]

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