墓地の杭は、最初からそこにあった。
寺が経営するその保育園は、本堂の裏手を抜けた先にあり、敷地の端を低い柵で区切ると、その向こうはすぐ苔むした墓地だった。卒塔婆が並び、風が吹くたびに木の軋む音がする。子供たちはその柵の内側で遊ぶ。外へ出てはいけないと教えられているから、誰も越えない。
異変に気づいたのは、春の終わりだった。
柵を支える鉄の杭の先端に、小さな甲虫が刺さっていた。偶然ではないとわかる角度だった。羽は開き、腹は裂け、乾いていた。誰かの悪戯だろう、と片づけられた。
次の日はトカゲだった。三日後にはカエル。いずれも杭の尖端に、まっすぐ通されていた。
園長でもある住職は、「外の子供だろう」と言った。近所の小学生が放課後に広場で遊んでいる。証拠もない。保護者に伝えるほどのことでもないと、誰も深く考えなかった。
考えないことにした、という方が近い。
やがて杭に刺さるものは大きくなった。
モグラだった。胸が裂け、内臓がのぞいていた。土に潜る柔らかな体が、鉄に貫かれて固まっていた。住職が無言で片づけた。子供たちに見せないよう、朝のうちに。
その日、ある園児が言った。
「ヒサルキ、またおなかすいたの」
誰に言ったのかはわからない。空に向かってではなかった。柵の外でもない。杭の手前、何もない地面を見ていた。
「ヒサルキってなに?」
保育士が訊くと、その子は首をかしげた。
「ヒサルキだよ」
それ以上の説明はなかった。
不思議なのは、他の子もその名前を知っていたことだ。
給食の時間、席がひとつ空いていると、誰かが言う。
「ヒサルキは、ここ」
砂場で山をつくり、ひとつ小さな穴を残すと、「ヒサルキのぶん」と笑う。
だが、誰も姿を描けない。「どんなの?」と尋ねても、「ヒサルキ」としか答えない。
絵を描かせてみたことがあった。画用紙の隅に、小さく文字だけが書かれていた。
ひさるき
文字はひらがなだった。輪郭はない。色もない。
猫が刺さったのは、その翌月だった。
首輪のついた白黒の猫が、杭に首から通されていた。血はほとんど流れていなかった。誰かが持ち上げて、静かに置いたようだった。
子供たちは泣かなかった。
柵の前に並び、しばらく見て、それから一人が言った。
「ヒサルキ、ちがうのがよかったみたい」
違う、とは何が。
住職が布で包み、寺の奥で焼いた。供養だと言った。だが翌日から、園児たちは散歩の列の中に、ひとり分の隙間をあけるようになった。
誰に教えられたわけでもない。
やがて、園で飼っていたウサギがいなくなった。
小屋の扉は閉まっていた。鍵もかかっていた。探していると、柵の前に子供が立っていた。
杭に、白い胴体が通されていた。
血は乾き、目は閉じていた。眠っているように見えた。
その子は振り返り、穏やかに言った。
「ヒサルキ、ちゃんとできたね」
その日、保育士の一人が思い出したように言った。
「前に、この名前、見たことがある」
数年前、退園した子の絵に書かれていた、と。
その子の家族は、ある夜、突然引っ越した。誰にも告げず、夜のうちに荷物を積み、姿を消した。たまたま窓から見えたという。トラックの助手席で、その子は両目に白い布を当てていた。
怪我だったのかはわからない。顔は動かなかった。ただ、こちらを向いていた。
それ以来、杭に刺さるものはなくなった。
だが、名前は残った。
朝の会で点呼をとるとき、誰かが小さく付け足す。
「ヒサルキ」
誰も否定しない。
保護者に訊いても、その言葉を知らないと言う。家では使っていないと。
ある日、友人は気づいた。
園児たちが、柵のほうを見ない日が増えたことに。
杭を避けるのではない。まるで、そこに誰かが立っているから、目を合わせないようにしているかのように。
そして、ある子がこう言った。
「ヒサルキ、もうささなくていいって」
何を。
「だって、いまは、ここにいるから」
その子は自分の胸を指した。
それから、虫だけが刺さるようになった。
小さな命。すぐに乾くもの。
友人は言う。
「今もね、呼ぶと返事するよ」
冗談めかして笑いながら、手を振る仕草をした。
「ヒサルキ」
一拍置いてから、彼女は自分の名前を呼ばれたように振り返った。
誰もいないのに。
それ以来、私はあの園の前を通るたび、無意識に数を数える。
子供の数を。
そして、もうひとり分、数えないようにしている。
名前を知ってしまったからだ。
ヒサルキ、と。
もし今、あなたのそばで、子供がひとり足りなく見えたなら。
それは、きっと。
[出典:114: あなたのうしろに名無しさんが…… :2003/02/13 13:06:12]