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短編 r+ 洒落にならない怖い話

外から見た丸窓 rw+5,423-0613

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留学していたころ、俺の部屋からは、使われていない地下鉄の出口が見えた。

ヨーロッパの、とある古い町だった。

俺が借りていたのは屋根裏部屋で、天井は斜めに落ち、立ち上がる場所を選ばないとすぐ頭をぶつけた。その代わり、壁には大きな丸窓があった。昼間はそこから石畳の道と、向かいの建物の壁と、地下鉄の出口が見えた。

その出口は少し変だった。

階段はなく、上りのエスカレーターだけが一本、地面の下から口を開けるように伸びていた。出口専用らしいのだが、昼間でも人が出てくるところをほとんど見なかった。近くに別の出入口があったから、皆そちらを使っていたのだと思う。

夜になると、そこだけ灯りが消え残った。

町の通りは早く静まり返る。酔っ払いの声も、車の音も、だんだん遠くなる。そんな時間に、たまにそのエスカレーターが動き出した。

ブーン、という低い音がした。

最初に聞いたときは、終電のあとに職員が点検でもしているのだと思った。けれど、窓から見ても誰もいない。地下から上ってくる人も、出口のそばに立っている人もいない。ただ、黒いゴムの手すりだけがゆっくり回っている。

一度気になると、あの音は部屋の中まで入ってきた。

冷蔵庫の音とは違う。換気扇の音とも違う。機械が勝手に起きて、誰かを運ぶ準備をしているような音だった。

それでも俺は、たいしたことだとは思わなかった。

言葉もろくに通じず、大学の授業にもついていけず、俺の生活は狭かった。週末になると、日本人の知り合いを部屋に呼んで酒を飲んだ。安いワインと缶詰と、米を炊いたようなものを並べて、朝方までくだらない話をした。

その夜も、そんなつもりだった。

仲のいい画学生に電話をすると、「今、学校の子と飲んでいる」と言った。連れてきてもいいかと聞くので、いいよと答えた。

一時間ほどして、そいつは女の子を連れてきた。

小柄で、よく笑う子だった。俺たちと同じ学校に通っている、唯一の日本人だという。最初は少し緊張していたが、酒が入るにつれてよく話すようになった。絵のこと、町のこと、日本に帰ったら何を食べたいか、そんな話をした。

終電がなくなったころ、俺は二人に泊まっていけと言った。

あのあたりは夜になると治安が悪い。冗談ではなく、深夜にひとりで歩かせるのは危なかった。

画学生はすぐ床に転がった。女の子は丸窓のそばに座り、煙草を吸いながら外を眺めていた。

しばらくして、彼女が言った。

「動いてる」

窓の外を見ると、エスカレーターが動いていた。

午前二時を少し過ぎていた。

「それ、たまにあるんだよ」

俺が言うと、彼女は窓に顔を近づけた。

「誰もいないのに?」

「いない。だから気持ち悪い」

「いいな、それ」

「よくないよ。ひとりのときは普通に嫌だぞ」

俺が笑うと、彼女も笑った。

そのときは、まだ笑えた。

エスカレーターはずっと動いていた。誰も上がってこないのに、休まず上へ上へと流れている。地下にある黒い口だけが、いつまでも閉じない。

画学生が寝返りを打ちながら、「電気系統じゃないの」と言った。

俺もそうだと思うことにした。

その数分後だった。

彼女が、窓から目を離さずに言った。

「誰かいる」

部屋が少し静かになった。

俺は隣に行って外を見た。出口のまわりに人影はない。通りにも誰もいない。エスカレーターの金属板が蛍光灯を反射して、鈍く光っているだけだった。

「いないじゃん」

「いないね」

彼女はそう言った。

だが、顔は窓のほうを向いたままだった。

それから彼女は、俺たちの話にあまり入ってこなくなった。丸窓の前に膝を抱え、煙草も吸わずに外を見ていた。

俺が声をかけようとしたとき、彼女が小さく息をのんだ。

「あ」

画学生が起き上がった。

「何」

「出てきた」

「誰が」

「女の人と、子ども」

俺はもう一度窓を見た。

やはり誰もいない。

「冗談やめろよ」

少し強い声になったと思う。

彼女はこちらを見なかった。

「こっち見てる」

そのあと、誰もあまり喋らなかった。

エスカレーターの音だけが続いていた。

俺はいつの間にか眠っていた。朝になって目を覚ますと、画学生は床で寝ていたが、彼女はいなかった。

台所のシンクに、彼女が使ったグラスだけがきれいに洗って置かれていた。

あとで電話をすると、彼女は「眠れなかったから帰った」と言った。声はいつも通りだったので、俺も深く聞かなかった。

ただ、電話を切る前に、彼女が急に言った。

「ねえ、あれ、もう見ないほうがいいよ」

「あれって」

「エスカレーター」

「なんで」

少し間があった。

「見つかるから」

俺は笑ってごまかそうとした。

「誰に」

彼女は答えなかった。

そのあと、彼女とは付き合うようになった。

きっかけは覚えていない。彼女が俺の部屋に来ることはなかったが、外で会い、食事をし、俺が作ったものを彼女の下宿に持っていくようになった。彼女はよく食べた。白い皿に残ったソースまでパンで拭って、「これ日本で店出せるよ」と笑った。

それなのに、ある時期から急に痩せた。

頬の肉が落ち、指が細くなり、笑うまでに時間がかかるようになった。眠れていないのは見て分かった。絵も描けなくなったらしい。スケッチブックの同じページに、黒い線ばかり重ねていた。

俺が理由を聞くと、彼女は首を振った。

「音がする」

「何の」

「下から上がってくる音」

俺は何も言えなかった。

彼女は続けた。

「夢の中でもする。日本語で謝っても、向こうの言葉で謝っても、止まらない」

その言葉の意味が分からなかった。

分からないまま、彼女は帰国した。

別れ際にも会えなかった。学校の知り合いから、彼女が急に日本へ戻ったと聞かされた。電話は繋がらず、手紙を出しても返事はなかった。

半年ほどして、俺も夏休みに日本へ一時帰国した。

迷った末、彼女の実家を訪ねることにした。

広島だった。

彼女から聞いていた住所を頼りに、何度も道を間違えながら住宅街を歩いた。家はすぐ分かった。古い門柱に表札があり、庭の木が伸びすぎて、窓に影を落としていた。

インターホンを押すと、彼女の母親が出てきた。

俺が名乗ると、母親は顔色を変えた。

「吉村さんですか」

その言い方で、俺はもう嫌な予感がした。

居間に通され、仏壇の前に座らされた。

そこに彼女の写真があった。

白い花と線香の煙の向こうで、彼女は留学先で見せていたのと同じ顔で笑っていた。

母親の話は断片的だった。

帰国してから、彼女はしばらく入院していた。夜になると眠れず、誰かが来ると言って怯えた。病室の廊下でエスカレーターの音がすると言い、窓を全部塞いでくれと頼んだ。

ある朝、彼女はいなくなった。

そのあと、亡くなって見つかった。

母親は泣かなかった。もう泣き切ったあとの顔だった。

「向こうで、何があったんでしょうか」

そう聞かれて、俺は答えられなかった。

あの夜のことを話すべきか迷った。だが、地下鉄の出口が夜中に動いたこと、彼女だけが女と子どもを見たこと、見つかると言ったこと。それを遺族に話して何になるのか分からなかった。

俺は仏壇に手を合わせた。

線香の匂いの中で、なぜかエスカレーターの低い音が耳に残った。

留学先へ戻ると、俺宛に手紙が届いていた。

差出人は彼女だった。

消印を見ると、彼女が亡くなる少し前に投函されたものだった。封筒は薄く、角が折れていた。中には便箋が三枚と、小さなデッサンが一枚入っていた。

字はひどく乱れていた。

読めるところと読めないところがあった。

《わたしはしぬ》

《あれからずっとおいまわされてる》

《げんじつにも ゆめにも》

《あのおと》

《あのふたり》

その下は、何度も同じ言葉が重なっていた。

ごめんなさい。

ごめんなさい。

ごめんなさい。

誰に謝っているのかは分からなかった。

デッサンには、俺の部屋の丸窓が描かれていた。

ただし、内側からではなかった。

外から見た丸窓だった。

屋根裏部屋の丸い窓の中に、俺がいた。俺の後ろには寝ている画学生がいて、窓際には彼女がいた。

そして、部屋の手前、つまり絵を描いている側に、女の人と子どもが立っていた。

俺はその紙を持ったまま、しばらく動けなかった。

彼女はあの夜、窓の外を見ていたのではない。

窓の外から、こちらを見られていたのだ。

帰国を決めた。

その前に、別の国へ移っていた画学生を訪ねた。

会うのは久しぶりだった。彼は以前より痩せ、目の下に濃い隈ができていた。駅前の安いホテルの部屋で、俺は彼女の手紙とデッサンを見せた。

彼は長い間黙っていた。

それから、灰皿に吸いかけの煙草を押しつけて言った。

「俺も見た」

俺は聞き返した。

「何を」

「女と子ども」

あの夜、彼は寝てなどいなかったという。彼女が「こっち見てる」と言ったあと、彼も窓を見た。最初は何もいなかった。けれど、エスカレーターの下のほうに、白い顔が二つ並んでいた。

上ってきているのではなかった。

下から、ずっとこちらを見上げていた。

「なんで黙ってた」

そう言うと、彼は笑った。笑ったが、顔は歪んでいた。

「言ったら、本当になる気がした」

彼はそのあと、俺に何かを言いかけてやめた。

「帰るまで、あの出口には近づくな」

それだけ言った。

俺は彼の忠告に従うつもりだった。

だが、最後の夜、午前二時を過ぎたころ、あの音がした。

ブーン。

丸窓の外で、エスカレーターが動いていた。

荷物はもうまとめてあった。部屋には段ボールとスーツケースだけが残っていた。俺は窓に近づかないようにして、椅子に座っていた。

音は続いた。

ブーン。

ブーン。

今思えば、あのとき俺は、自分だけは大丈夫だと思っていたのだと思う。彼女は見た。画学生も見た。俺だけが見えなかった。だから助かっている。そういう、都合のいい理屈を持っていた。

俺は丸窓を覗いた。

エスカレーターは動いていた。

誰もいなかった。

通りにも、出口にも、地下へ続く黒い穴にも、何も見えなかった。

俺はしばらく見ていた。

何も出てこない。

そのときだけは、少し拍子抜けした。

俺は日本へ戻った。

帰国してしばらくしてから、実家に画学生からの手紙が届いた。

短い手紙だった。

《俺はもうだめだ》

《彼女がああなったのは、俺のせいだ》

そのあとに、彼が彼女にしたことが書かれていた。

読み終えたとき、吐き気がした。

詳しくは書かない。ただ、彼女があの夜のあと、何に追い詰められていたのかを、俺は初めて別の形で知った。

そして、手紙の最後にこうあった。

《あいつらは、見えるやつを追うんじゃない》

《隠したやつを追う》

彼もその後、亡くなった。

俺は彼女の手紙を何度も読み返した。

最後のほうに、どうしても読めなかった一文があった。乱れた字の上に何度も線が重なっていて、ずっと判別できなかった。

だが、画学生の手紙を読んだあと、その文字だけが急に読めた。

《わたしじゃない》

その下に、あの言葉が続いていた。

《ごめんなさい》

俺は今も、彼女が何に謝っていたのか分からない。

あの女と子どもに謝っていたのか。

俺に黙っていたことを謝っていたのか。

それとも、見えてしまったのに、誰にも言えなかったことを謝っていたのか。

ただ、ひとつだけ気になることがある。

俺は最後の夜、丸窓からエスカレーターを見た。

何も見えなかった。

本当に何も見えなかった。

けれど、あのとき窓ガラスに映った俺の後ろに、誰かが立っていなかったか。

たまに、そう思う。

それで振り返っても、もちろん誰もいない。

ただ、夜中に換気扇や冷蔵庫が低く鳴ると、今でも耳が勝手にあの音を探す。

ブーン。

上ってくる音ではない。

見つけたものを、降りていかせない音だ。

(了)

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