留学していたころ、俺の部屋からは、使われていない地下鉄の出口が見えた。
ヨーロッパの、とある古い町だった。
俺が借りていたのは屋根裏部屋で、天井は斜めに落ち、立ち上がる場所を選ばないとすぐ頭をぶつけた。その代わり、壁には大きな丸窓があった。昼間はそこから石畳の道と、向かいの建物の壁と、地下鉄の出口が見えた。
その出口は少し変だった。
階段はなく、上りのエスカレーターだけが一本、地面の下から口を開けるように伸びていた。出口専用らしいのだが、昼間でも人が出てくるところをほとんど見なかった。近くに別の出入口があったから、皆そちらを使っていたのだと思う。
夜になると、そこだけ灯りが消え残った。
町の通りは早く静まり返る。酔っ払いの声も、車の音も、だんだん遠くなる。そんな時間に、たまにそのエスカレーターが動き出した。
ブーン、という低い音がした。
最初に聞いたときは、終電のあとに職員が点検でもしているのだと思った。けれど、窓から見ても誰もいない。地下から上ってくる人も、出口のそばに立っている人もいない。ただ、黒いゴムの手すりだけがゆっくり回っている。
一度気になると、あの音は部屋の中まで入ってきた。
冷蔵庫の音とは違う。換気扇の音とも違う。機械が勝手に起きて、誰かを運ぶ準備をしているような音だった。
それでも俺は、たいしたことだとは思わなかった。
言葉もろくに通じず、大学の授業にもついていけず、俺の生活は狭かった。週末になると、日本人の知り合いを部屋に呼んで酒を飲んだ。安いワインと缶詰と、米を炊いたようなものを並べて、朝方までくだらない話をした。
その夜も、そんなつもりだった。
仲のいい画学生に電話をすると、「今、学校の子と飲んでいる」と言った。連れてきてもいいかと聞くので、いいよと答えた。
一時間ほどして、そいつは女の子を連れてきた。
小柄で、よく笑う子だった。俺たちと同じ学校に通っている、唯一の日本人だという。最初は少し緊張していたが、酒が入るにつれてよく話すようになった。絵のこと、町のこと、日本に帰ったら何を食べたいか、そんな話をした。
終電がなくなったころ、俺は二人に泊まっていけと言った。
あのあたりは夜になると治安が悪い。冗談ではなく、深夜にひとりで歩かせるのは危なかった。
画学生はすぐ床に転がった。女の子は丸窓のそばに座り、煙草を吸いながら外を眺めていた。
しばらくして、彼女が言った。
「動いてる」
窓の外を見ると、エスカレーターが動いていた。
午前二時を少し過ぎていた。
「それ、たまにあるんだよ」
俺が言うと、彼女は窓に顔を近づけた。
「誰もいないのに?」
「いない。だから気持ち悪い」
「いいな、それ」
「よくないよ。ひとりのときは普通に嫌だぞ」
俺が笑うと、彼女も笑った。
そのときは、まだ笑えた。
エスカレーターはずっと動いていた。誰も上がってこないのに、休まず上へ上へと流れている。地下にある黒い口だけが、いつまでも閉じない。
画学生が寝返りを打ちながら、「電気系統じゃないの」と言った。
俺もそうだと思うことにした。
その数分後だった。
彼女が、窓から目を離さずに言った。
「誰かいる」
部屋が少し静かになった。
俺は隣に行って外を見た。出口のまわりに人影はない。通りにも誰もいない。エスカレーターの金属板が蛍光灯を反射して、鈍く光っているだけだった。
「いないじゃん」
「いないね」
彼女はそう言った。
だが、顔は窓のほうを向いたままだった。
それから彼女は、俺たちの話にあまり入ってこなくなった。丸窓の前に膝を抱え、煙草も吸わずに外を見ていた。
俺が声をかけようとしたとき、彼女が小さく息をのんだ。
「あ」
画学生が起き上がった。
「何」
「出てきた」
「誰が」
「女の人と、子ども」
俺はもう一度窓を見た。
やはり誰もいない。
「冗談やめろよ」
少し強い声になったと思う。
彼女はこちらを見なかった。
「こっち見てる」
そのあと、誰もあまり喋らなかった。
エスカレーターの音だけが続いていた。
俺はいつの間にか眠っていた。朝になって目を覚ますと、画学生は床で寝ていたが、彼女はいなかった。
台所のシンクに、彼女が使ったグラスだけがきれいに洗って置かれていた。
あとで電話をすると、彼女は「眠れなかったから帰った」と言った。声はいつも通りだったので、俺も深く聞かなかった。
ただ、電話を切る前に、彼女が急に言った。
「ねえ、あれ、もう見ないほうがいいよ」
「あれって」
「エスカレーター」
「なんで」
少し間があった。
「見つかるから」
俺は笑ってごまかそうとした。
「誰に」
彼女は答えなかった。
そのあと、彼女とは付き合うようになった。
きっかけは覚えていない。彼女が俺の部屋に来ることはなかったが、外で会い、食事をし、俺が作ったものを彼女の下宿に持っていくようになった。彼女はよく食べた。白い皿に残ったソースまでパンで拭って、「これ日本で店出せるよ」と笑った。
それなのに、ある時期から急に痩せた。
頬の肉が落ち、指が細くなり、笑うまでに時間がかかるようになった。眠れていないのは見て分かった。絵も描けなくなったらしい。スケッチブックの同じページに、黒い線ばかり重ねていた。
俺が理由を聞くと、彼女は首を振った。
「音がする」
「何の」
「下から上がってくる音」
俺は何も言えなかった。
彼女は続けた。
「夢の中でもする。日本語で謝っても、向こうの言葉で謝っても、止まらない」
その言葉の意味が分からなかった。
分からないまま、彼女は帰国した。
別れ際にも会えなかった。学校の知り合いから、彼女が急に日本へ戻ったと聞かされた。電話は繋がらず、手紙を出しても返事はなかった。
半年ほどして、俺も夏休みに日本へ一時帰国した。
迷った末、彼女の実家を訪ねることにした。
広島だった。
彼女から聞いていた住所を頼りに、何度も道を間違えながら住宅街を歩いた。家はすぐ分かった。古い門柱に表札があり、庭の木が伸びすぎて、窓に影を落としていた。
インターホンを押すと、彼女の母親が出てきた。
俺が名乗ると、母親は顔色を変えた。
「吉村さんですか」
その言い方で、俺はもう嫌な予感がした。
居間に通され、仏壇の前に座らされた。
そこに彼女の写真があった。
白い花と線香の煙の向こうで、彼女は留学先で見せていたのと同じ顔で笑っていた。
母親の話は断片的だった。
帰国してから、彼女はしばらく入院していた。夜になると眠れず、誰かが来ると言って怯えた。病室の廊下でエスカレーターの音がすると言い、窓を全部塞いでくれと頼んだ。
ある朝、彼女はいなくなった。
そのあと、亡くなって見つかった。
母親は泣かなかった。もう泣き切ったあとの顔だった。
「向こうで、何があったんでしょうか」
そう聞かれて、俺は答えられなかった。
あの夜のことを話すべきか迷った。だが、地下鉄の出口が夜中に動いたこと、彼女だけが女と子どもを見たこと、見つかると言ったこと。それを遺族に話して何になるのか分からなかった。
俺は仏壇に手を合わせた。
線香の匂いの中で、なぜかエスカレーターの低い音が耳に残った。
留学先へ戻ると、俺宛に手紙が届いていた。
差出人は彼女だった。
消印を見ると、彼女が亡くなる少し前に投函されたものだった。封筒は薄く、角が折れていた。中には便箋が三枚と、小さなデッサンが一枚入っていた。
字はひどく乱れていた。
読めるところと読めないところがあった。
《わたしはしぬ》
《あれからずっとおいまわされてる》
《げんじつにも ゆめにも》
《あのおと》
《あのふたり》
その下は、何度も同じ言葉が重なっていた。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
誰に謝っているのかは分からなかった。
デッサンには、俺の部屋の丸窓が描かれていた。
ただし、内側からではなかった。
外から見た丸窓だった。
屋根裏部屋の丸い窓の中に、俺がいた。俺の後ろには寝ている画学生がいて、窓際には彼女がいた。
そして、部屋の手前、つまり絵を描いている側に、女の人と子どもが立っていた。
俺はその紙を持ったまま、しばらく動けなかった。
彼女はあの夜、窓の外を見ていたのではない。
窓の外から、こちらを見られていたのだ。
帰国を決めた。
その前に、別の国へ移っていた画学生を訪ねた。
会うのは久しぶりだった。彼は以前より痩せ、目の下に濃い隈ができていた。駅前の安いホテルの部屋で、俺は彼女の手紙とデッサンを見せた。
彼は長い間黙っていた。
それから、灰皿に吸いかけの煙草を押しつけて言った。
「俺も見た」
俺は聞き返した。
「何を」
「女と子ども」
あの夜、彼は寝てなどいなかったという。彼女が「こっち見てる」と言ったあと、彼も窓を見た。最初は何もいなかった。けれど、エスカレーターの下のほうに、白い顔が二つ並んでいた。
上ってきているのではなかった。
下から、ずっとこちらを見上げていた。
「なんで黙ってた」
そう言うと、彼は笑った。笑ったが、顔は歪んでいた。
「言ったら、本当になる気がした」
彼はそのあと、俺に何かを言いかけてやめた。
「帰るまで、あの出口には近づくな」
それだけ言った。
俺は彼の忠告に従うつもりだった。
だが、最後の夜、午前二時を過ぎたころ、あの音がした。
ブーン。
丸窓の外で、エスカレーターが動いていた。
荷物はもうまとめてあった。部屋には段ボールとスーツケースだけが残っていた。俺は窓に近づかないようにして、椅子に座っていた。
音は続いた。
ブーン。
ブーン。
今思えば、あのとき俺は、自分だけは大丈夫だと思っていたのだと思う。彼女は見た。画学生も見た。俺だけが見えなかった。だから助かっている。そういう、都合のいい理屈を持っていた。
俺は丸窓を覗いた。
エスカレーターは動いていた。
誰もいなかった。
通りにも、出口にも、地下へ続く黒い穴にも、何も見えなかった。
俺はしばらく見ていた。
何も出てこない。
そのときだけは、少し拍子抜けした。
俺は日本へ戻った。
帰国してしばらくしてから、実家に画学生からの手紙が届いた。
短い手紙だった。
《俺はもうだめだ》
《彼女がああなったのは、俺のせいだ》
そのあとに、彼が彼女にしたことが書かれていた。
読み終えたとき、吐き気がした。
詳しくは書かない。ただ、彼女があの夜のあと、何に追い詰められていたのかを、俺は初めて別の形で知った。
そして、手紙の最後にこうあった。
《あいつらは、見えるやつを追うんじゃない》
《隠したやつを追う》
彼もその後、亡くなった。
俺は彼女の手紙を何度も読み返した。
最後のほうに、どうしても読めなかった一文があった。乱れた字の上に何度も線が重なっていて、ずっと判別できなかった。
だが、画学生の手紙を読んだあと、その文字だけが急に読めた。
《わたしじゃない》
その下に、あの言葉が続いていた。
《ごめんなさい》
俺は今も、彼女が何に謝っていたのか分からない。
あの女と子どもに謝っていたのか。
俺に黙っていたことを謝っていたのか。
それとも、見えてしまったのに、誰にも言えなかったことを謝っていたのか。
ただ、ひとつだけ気になることがある。
俺は最後の夜、丸窓からエスカレーターを見た。
何も見えなかった。
本当に何も見えなかった。
けれど、あのとき窓ガラスに映った俺の後ろに、誰かが立っていなかったか。
たまに、そう思う。
それで振り返っても、もちろん誰もいない。
ただ、夜中に換気扇や冷蔵庫が低く鳴ると、今でも耳が勝手にあの音を探す。
ブーン。
上ってくる音ではない。
見つけたものを、降りていかせない音だ。
(了)