ある大学の先輩たちは、夜になるとよく車で峠へ行っていた。
大学の周りには、夜に開いている店がほとんどなかった。コンビニまで車で二十分。カラオケもゲームセンターも隣町まで出なければならない。だから、講義のあとに誰かの部屋へ集まり、飽きると車を出す。それだけのことだった。
その夜も、いつもと同じだった。
四人で車に乗り、隣町へ抜ける峠を走った。山の上の展望台で缶コーヒーを飲み、町の灯りを見て、たいした話もしないまま戻った。帰り道、峠を下りきる少し手前に自動販売機が一台ある。道端にぽつんと立っていて、夜はそこだけ白く浮いて見えた。
運転していた高瀬が、「なんか飲んでくか」と言って車を停めた。
自販機の横には、古いガードレールがあった。足元のアスファルトは黒くひび割れていて、排水溝に落ち葉が詰まっていた。そのガードレールの根元に、花束が置かれていた。
白い菊と、色の抜けた小さな花。ビニールの端が夜露で濡れていた。隣には、まだ新しいオレンジジュースの缶が一本、開けられずに置いてあった。
来るとき、そこに何かあった記憶はなかった。
「事故でもあったのかな」
誰かがそう言った。四人は少し黙った。
高瀬ともう一人は、軽く手を合わせた。俺の知っている先輩は、そのとき後ろで笑っていたそうだ。
「知らない人に拝んでも意味なくね」
そんなことを言いながら、タバコに火をつけた。
誰も咎めなかった。咎めるほどのことでもないと思ったのだろう。ジュースを買い、車に戻り、走り出した。
しばらくして、高瀬がルームミラーを見た。
「なあ」
返事をした者はいなかった。
「さっきの、見たか」
助手席の先輩が、「花か」と聞いた。
高瀬は前を向いたまま、首を振った。
「花じゃなくて。横にあったやつ」
「缶ジュースだろ」
「違う。ランドセル」
車の中が静かになった。
高瀬は、赤いランドセルが花束の横に置いてあったと言った。ガードレールに寄りかかるでもなく、倒れているでもなく、きちんと置かれていたと。肩ひもがこちらを向いていたから、見間違えるはずがない、とも言った。
他の三人は見ていなかった。
「なかったよ」
「いや、あった」
「暗かったし、影じゃないのか」
「影じゃない。赤だった」
高瀬の声は大きくならなかった。ただ、同じ調子で何度も言った。赤いランドセルがあった。花の横にあった。あれを見て、よく平気で手なんか合わせられたな、と。
その言い方が、妙に引っかかったらしい。
車はそのまま、いつも溜まり場にしているアパートへ向かった。二階建ての古いアパートで、砂利敷きの駐車場がある。高瀬はそこへ入ろうとして、急にブレーキを踏んだ。
砂利がタイヤの下で鳴った。
「何してんだよ」
助手席の先輩が言うと、高瀬は返事をしなかった。ライトの先に、駐車場の白線と、錆びた自転車置き場が見えていた。
それだけだった。
高瀬は、ハンドルを握ったまま言った。
「いる」
「何が」
「女の子」
後部座席の二人が顔を上げた。
「赤いランドセル、背負ってる」
誰も何も見えなかった。
ライトの中には、砂利と白線と、風で少し揺れている自転車のカバーしかなかった。それでも高瀬は、駐車場の奥を見たまま動かなかった。
「こっち見てる」
その一言で、誰も車を降りようと言えなくなった。
高瀬はアパートに入らず、そのまま車を出した。助手席の先輩が「どこ行くんだ」と聞くと、「どこでもいい」と言った。
ファミレスに行こうという話も出た。大学の駐車場に戻ろうという話も出た。けれど、どこへ行くにしても、最初にドアを開けるのは高瀬だった。高瀬は、それを嫌がった。
結局、別の先輩の部屋へ行くことになった。アパートではなく、民家の二階を借りている部屋だった。駐車場もない。車は少し離れた空き地に停め、四人はなるべく近寄って歩いた。
階段を上がるとき、高瀬は何度も下を見た。
「まだいるのか」と聞く者はいなかった。
部屋に入ると、カーテンを全部閉めた。電気をつけ、テレビもつけた。音があれば大丈夫だと思ったのかもしれない。四人は朝まで起きていた。麻雀牌を並べたが、誰も点数を数えなかった。
明け方になって、ようやく高瀬は少し笑った。
「いない」
そう言った。
その言葉で、他の三人も息を吐いた。朝になれば終わる。そういう種類の話だと思えたのだ。
けれど、高瀬はその日から講義に来なくなった。
最初は寝不足だろうと笑っていた。二日目には風邪だろうと言った。三日目に電話をかけると、高瀬は出たが、声が遠かった。
「外に出られない」
それだけ言って、切った。
四人のうち二人が、高瀬の部屋へ行った。ドアを叩くと、しばらくして鍵が開いた。隙間から高瀬の顔が見えた。無精ひげが伸び、目の下が黒くなっていた。
部屋に入ると、カーテンは閉めきられていた。コンビニの袋とペットボトルが床に転がっていた。高瀬は玄関から先へ戻らず、壁に背中をつけたまま、部屋の奥を見ていた。
「何があるんだよ」
そう聞くと、高瀬は部屋の隅を指さした。
本棚と押し入れの間。そこには、畳の上に古い雑誌が積まれているだけだった。
「そこにある」
「何が」
「ランドセル」
二人には見えなかった。
「昨日までは駐車場にいたんだ」
高瀬は言った。
「でも夜中に、窓の下まで来た。朝になったら、部屋の中にあった」
「窓、閉まってるだろ」
「だから出られないんだよ」
高瀬は、二人が来ても玄関から動かなかった。背中を壁につけたまま、部屋の奥を見続けた。二人が無理に外へ連れ出そうとすると、高瀬は急に叫んだ。
「触るな。背負わせようとしてる」
そのとき、二人のうち一人が、小さな音を聞いた。
かちゃ、と。
プラスチックの留め具が鳴るような音だった。
二人には何も見えていなかった。けれど、その音だけは確かに聞こえた。高瀬も聞いたらしく、口を閉じ、両肩をすくめた。
その日の夕方、四人は知人の紹介で寺へ行った。
住職は、高瀬をしばらく見てから、「憑いてはいない」と言った。全員が拍子抜けした。あれほど怯えているのに、何も憑いていないという。
高瀬だけは、少しも安心しなかった。
帰り際、住職が高瀬を呼び止めた。
「背中、重くないですか」
高瀬は振り返らなかった。
その後、高瀬は実家に戻った。休学したとも、退学したとも聞いた。誰も詳しくは知らない。連絡を取ろうとしても、本人はあまり話したがらなかった。
一度だけ、当時の先輩が電話で聞いたことがある。
「まだ見えるのか」
高瀬は、少し黙ってから言った。
「見えない」
それならもう大丈夫なのか、と先輩が聞くと、高瀬は答えなかった。
しばらくして、受話器の向こうで布がこすれるような音がした。
それから高瀬は、小さな声でこう言った。
「見えないけど、下ろせない」
その話を聞いたのは、それから何年も後だった。
話してくれた先輩は、最後に「だから夜道の花には近づかない」と言った。手を合わせるかどうかではない。馬鹿にしたかどうかでもない。あれは、見た人間のところへ来るのではなく、空いている背中を探しているのかもしれない、と。
俺はその話を、冗談として聞き流そうとした。
けれど、その夜から、椅子の背もたれに上着をかけられなくなった。
肩ひもの形に見えるからだ。
(了)