車を手放してから、俺は夜の山道を通っていない。
助手席に乗ることはある。けれど、バックミラーだけは見ない。あれは後ろを確認するためのものではなく、見なくていいものを見せるための穴だと、今でも体が覚えている。
何年か前のことだ。
夕方、空の下のほうに赤みが残っている時間に、俺は友人の坂本を乗せて山道を走っていた。目的地は山の向こうにある嶌田の家だった。高校の同級生が十人ほど集まって飲むことになっていて、ちょっとした同窓会みたいなものだった。
坂本は集合時間を一時間勘違いしていた。家の前で拾った時も、車に乗ってからも、何度も「悪い、ほんま悪い」と頭を下げていた。
俺も少し焦っていた。
山越えの道は一本道で、信号も民家もほとんどない。道幅は狭いが、慣れている道だった。対向車さえ来なければ、それなりに飛ばせる。
しばらく走ると、前方に軽自動車が見えた。
古い白の軽だった。車種までは覚えていない。四角い形で、後ろの窓が少し汚れていた。速度が遅い。遅いだけならまだいい。カーブのたびに、ほとんど止まりそうなほどブレーキを踏む。
最初は高齢者でも運転しているのかと思った。
だが、坂本が急に黙った。
さっきまで何度も謝っていたのに、ふっと声が切れた。横目で見ると、坂本は助手席で固まっていた。顔色が悪い。膝の上に置いた両手を握りしめ、前の軽から目を逸らせずにいる。
「酔ったんか?」
返事はなかった。
「見通しのいいところで抜くわ」
そう言うと、坂本が低い声で言った。
「中、見るなよ」
聞き返したが、坂本はそれきり口を閉じた。
俺は腹が立っていた。遅れている。道は空いている。目の前の軽だけが、こちらを止めている。ちょうど短い直線に入ったので、俺はウインカーを出し、アクセルを踏み込んだ。
追い越す瞬間、見るつもりはなかった。
ただ、並んだ時、向こうの後部座席が視界の端に入った。
暗かった。
まだ夕方で、車内が真っ暗になる時間ではない。なのに、その軽の中だけ、日が落ちた後の部屋みたいに沈んでいた。人影のようなものが見えた気がしたが、すぐに追い抜いたので、はっきりとは分からなかった。
バックミラーの中で、軽のライトが遠ざかっていった。
その時、坂本が息を吐いた。長く、我慢していたものを吐き出すような息だった。
「お前、見たんか?」
「見てない。何やねん、あれ」
坂本は答えなかった。
そのまましばらく走った。山道は暗くなり始めていた。木の影が道に落ち、カーブの先が見えにくくなっていく。
ふと、バックミラーにライトが映った。
一台分の距離ではなかった。すぐ後ろだった。
さっき追い越した軽だった。
どう考えてもおかしい。こちらはかなり飛ばしていたし、向こうはあの速度だった。追いつけるはずがない。
ライトが左右に揺れた。車間を詰め、こちらのバンパーに触れるほど近づいてくる。クラクションが鳴った。短く一度ではなく、押しっぱなしに近い音だった。
「譲るわ」
俺がそう言うと、坂本が急に叫んだ。
「止まるな!」
その声に驚いて、ハンドルがぶれた。
「止まったらあかん!絶対にあかん!」
「でもぶつかるやろ!」
言い終わる前に、後ろから軽く衝撃が来た。
ゴツン、という鈍い音だった。
車体が前に押された。俺は反射的にアクセルを踏んだ。軽はぴったりと張りついてくる。クラクションは鳴り続けていた。ミラーを見るなと思うほど、視線が勝手に吸い寄せられる。
ライトの向こうに、白い軽のフロントガラスが見えた。
運転席に誰がいるのかは分からなかった。
ただ、助手席側の窓に、何かが寄っていた。
顔なのか、手なのか、布なのか、分からない。分からないのに、こちらを見ていることだけは分かった。
山頂近くに小さな駐車場があるのを思い出した。展望台というほどでもない、車が何台か停められるだけの場所だ。そこまで行けば、何とかなると思った。人はいなくても、道よりは広い。
俺は無理やりハンドルを切り、駐車場へ突っ込んだ。
砂利でタイヤが滑り、車体が斜めに流れた。ぶつからずに済んだのは、たまたまだった。エンジンをかけたまま、俺は息を荒げて出入口を見た。
軽が停まっていた。
道から駐車場へ入る口を塞ぐように、横向きに停まっていた。
追ってきたはずなのに、先にいた。
坂本は助手席で俯いていた。顔を両手で覆い、何かをぶつぶつ言っている。祈りのようにも、謝罪のようにも聞こえた。
俺はその姿を見て、急に腹が据わった。
恐怖よりも怒りが勝ったわけではない。あのまま車内にいる方が耐えられなかっただけだ。
ドアを開けて外に出た。
山の上は冷えていた。エンジン音だけがやけに大きく聞こえた。軽はヘッドライトをつけたまま、何も動かない。
近づくにつれて、違和感が強くなった。
中が見えない。
ヘッドライトはついている。こちらの車のライトも当たっている。窓も黒く塗られているわけではない。それなのに、軽の車内だけが奥へ奥へ沈んでいた。小さな車の中に、あり得ないほど深い暗がりがある。
運転席の窓を叩いた。
一度。
二度。
少し間を置いて、ガラスが下がった。
そこから先を、俺は今でもうまく言えない。
人が乗っていた、と言えば済む話ではなかった。
顔があった。たくさんあった。だが、座席に座っているわけではない。前からも、後ろからも、下からも、窓の奥からも、こちらを見ていた。軽自動車の中に収まる数ではなかった。肩と肩の隙間に別の額があり、髪の下に別の目があり、誰かの首の横から小さな口が覗いていた。

子供の顔もあったと思う。
老人の顔もあったと思う。
けれど、数えようとした瞬間に、どれが一人分なのか分からなくなった。
一番近くにあった顔が、俺を見て口を動かした。
声は聞こえなかった。
ただ、その口の形だけは分かった。
「かわれ」
俺は逃げた。
叫んだかどうかは覚えていない。足がもつれ、砂利で滑りながら自分の車へ戻った。坂本はまだ俯いていた。俺はドアを閉めるなりギアを入れ、出口へ向かった。
塞いでいる軽の横を、無理やり抜けた。
柵に車体をこすった。金属が裂ける音がした。左のミラーが折れた。けれど止まらなかった。
駐車場を出た瞬間、対向車のライトが目に入った。
そこから記憶が途切れている。
目を覚ました時、俺は病院のベッドにいた。
右腕と肋骨を折っていた。顔も何針か縫った。坂本は打撲と切り傷だけで済んだ。相手の車を運転していたのは二十代の女の人で、幸い命に別状はなかった。
事故は、俺が山道を下っている途中で対向車線にはみ出し、相手の車とぶつかった、という扱いになった。
白い軽自動車の話は、誰も信じなかった。
現場にはそんな車はなかった。駐車場にも、道路にも、軽の破片もタイヤ痕も残っていなかった。俺の車の後部バンパーには小さなへこみがあったが、事故の衝撃でできたものだろうと言われた。
相手の女の人にも聞いた。
「白い軽、見ませんでしたか?」
女の人は首を横に振った。
「軽は見てません。ただ……」
そこで少し黙った。
「あなたの車、人がいっぱい乗ってるように見えました」
意味が分からなかった。
「後部座席に、何人も。窓に顔がくっついてて。だから、すごく驚いて」
俺の車には、俺と坂本しか乗っていなかった。
坂本はその話を聞いても、何も言わなかった。
退院してしばらくしてから、坂本と一度だけ会った。昼間の喫茶店だった。窓際の席で、坂本は外を走る車を一台ずつ目で追っていた。
「最初から見えてたんや」
それだけ言った。
「軽の中か?」
坂本は答えなかった。
「俺の車の方か?」
その時だけ、坂本は俺を見た。
すごく疲れた顔をしていた。
「お前、あの時、俺の方を見たやろ」
俺は頷いた。
「その時からや」
それ以上は聞けなかった。
車は廃車にした。修理できないことはなかったらしい。だが、引き取りに行った時、後部座席のシートに薄い跡がいくつも残っていた。泥でも油でもない。押しつけたような跡だった。手の形に見えるものもあったし、顔を横に押し当てたように見えるものもあった。
業者は事故の時の荷物の跡だろうと言った。
俺は荷物なんか積んでいなかった。
それから、坂本とは会っていない。
電話も出ない。メッセージも返ってこない。共通の友人に聞くと、仕事はしているし、普通に暮らしているらしい。ただ、車には一切乗らなくなったという。
俺も自分では運転しなくなった。
それでも、たまにタクシーや知人の車に乗ることがある。そういう時、俺はできるだけ前を向いている。バックミラーは見ない。窓に映る後部座席も見ない。
一度だけ、深夜のタクシーで見てしまったことがある。
運転手が何気なくバックミラーの角度を直した。
その一瞬、鏡の端に後部座席が映った。俺の隣は空席だった。空席のはずだった。
でも、シートが少し沈んでいた。
誰かが詰めて座っているみたいに。
俺はすぐに目を逸らした。
運転手は気づかなかったのか、鼻歌を歌っていた。
その後、目的地に着いて金を払う時、運転手がルームミラー越しにこちらを見て、少し笑った。
「今日は大勢ですね」
俺は何も答えられなかった。
降りる時、後ろから小さく窓を叩く音がした。
タクシーの外からではなかった。
中からだった。
(了)