祖父が若い頃、山で仕事をしていたという話を、私は何度も聞かされてきた。
酒の席でも、正月の炬燵でも、話は決まってそこから始まる。語り口も、山に入る時刻も、守るべき決まりも、ほとんど変わらない。ただし、細部だけが、毎回わずかに違っていた。その違いが記憶の揺れなのか、語るたびに削られていった何かなのか、私には分からない。
祖父の仕事は、山の中腹に延びる作業道の整備だった。夜明け前に入山し、昼過ぎには下りる。朝の山は静かで、湿った土と樹皮の匂いが濃く、音は自分の足音だけになるという。風が止まると、世界から人間だけが切り離されたような感覚になるとも言っていた。
そんな作業中、時折、妙な音がしたらしい。カラスの鳴き声を無理やり喉の奥で潰したような、低く濁った声。方向が定まらず、距離も測れない。ただ確実に、山の中を移動していた。
鳴く。
数歩、近付く。
また鳴く。
音は規則正しく距離を詰めてくる。
祖父は、山に入る前から言い含められていた。あの音を聞いたら、必ず立ち止まれ。目を閉じろ。動くな。声を出すな。挑発するな。そして、音が完全に目の前で止まるまで、待て。
鳴き止んだら、「通して下さい」とだけ言う。返事が返ってきても、絶対に応じてはいけない。相手にした瞬間、道を外れる。
最初の頃、祖父は歯を噛み締め、汗を流しながらその決まりを守ったという。目を閉じている間、音は必ず目の前まで来る。息遣いのような気配が、顔のすぐ前に溜まる。皮膚が粟立ち、時間の感覚が薄れていく。
それでも、何も起きなかった。
それが十回、二十回と続くうち、恐怖は薄れた。音は厄介だが、決まりさえ守れば害はない。そう思うようになった。山に通っているのは何かだが、それは必ずしもこちらを害する存在ではない。そう理解したつもりになった。
問題の日も、いつもと同じ朝だった。霧の薄い、よくある作業日。音が聞こえ、祖父は立ち止まり、目を閉じた。
鳴く。
近付く。
鳴く。
やがて、目の前で音が止まった。祖父は、いつものように言うつもりだった。
だが、その直前、ふと、どうしても気になったという。本当に、何もないのか。何が、こんな決まりを作らせたのか。目を閉じていれば安全だと、誰が決めたのか。
ほんの一瞬だけなら。そう思って、目を開けてしまった。

そこには、何もなかった。
山の朝のはずなのに、光がなかった。木も霧も道も見えない。上下も奥行きも分からない。ただ、濃度のある闇が、視界いっぱいに広がっていた。闇というより、世界の手前に何かが被さっているようだった。
怖くて動けずにいると、耳元で声がした。
「見えた」
次の瞬間、視界は元に戻った。木々も、道も、霧も、すべて元通りだった。時間も、ほとんど経っていなかった。
祖父は、そのまま仕事を終え、何事もなかったように下山した。だが、その夜から、眠れなくなった。
夜中、戸が開く気配で目が覚める。誰かが入ってくる感じがして、体が動かない。起きているのか、夢なのか、区別がつかない。闇の中で、足音だけが確実に近付いてくる。
戸は、毎回、静かに開く。軋みも立てない。足音が近付き、布団の脇で止まる。声はしない。ただ、そこに「立っている」という確信だけが残る。
それが一ヶ月続いた。限界に達した頃、理由もなく、突然止んだ。何事もなかったかのように、夜は再び夜に戻った。
祖父はその話を、今でも笑いながらする。大したことじゃない、と言う。ただ、その笑いが安心なのか、確認なのか、私には分からない。笑わなければならない理由が、別にあるようにも見える。
ちなみに祖母も、若い頃、山で似た体験をしている。鳴き声はなく、足音だけが近付いてきたという。決まりも、ほとんど同じだった。立ち止まり、目を閉じ、やり過ごす。ただ、それだけだ。
二人は言う。同じものかどうかは分からない。だが、山には今も、見てはいけないものが、確実に通っている。
この話を、私は何度も聞いてきた。場所も、時間も、微妙に違う形で。そのたび、どこかが少しずつ削られていく感覚があった。
最近になって、理由のない不眠が続いている。夜中、戸の向こうで、何かが立ち止まる気配がする。足音はしない。ただ、こちらを待っている感じがある。
私は思う。祖父が笑うのは、無事だったからではない。あの時、確かに見てしまったものが、今もなお、通り続けていると知っているからだ。
そして、話を聞き続けてきた私もまた、いつの間にか、立ち止まる側に回ってしまったのかもしれない。
目を閉じるべきかどうかを、考える位置に。
(了)
[出典:203 :本当にあった怖い名無し:2011/03/27(日) 10:34:49.97 ID:StCZrEqIO]