小学校五年の春、私にはとても太っている友達がいた。
太っている、という言葉では足りなかった。子どもの目で見ても現実味がなく、どこか作り物のような大きさだった。机に腹が当たって前に寄れない。体育の時間は最初から見学。走る以前に立ち上がるのが遅れる。本人はそれを冗談めかして話し、私たちも最初は笑っていた。
名を、ここでは仮にミキとしておく。
初めて彼女の家に遊びに行った日のことは、今でもはっきり覚えている。季節外れの暑さで、玄関の扉を開けた瞬間、冷房の風が勢いよく吹き出した。その冷たさより先に、鼻にまとわりついた匂いがあった。油と砂糖と乳製品が混ざったような、重くて甘い匂い。飲食店の裏口に立っている時のような、胃の奥に残る匂いだった。
リビングに通されると、低いテーブルの上に皿が並んでいた。ケーキ、ドーナツ、菓子パン、スナック菓子、カップ麺。私の前にも同じ内容が一人分ずつ用意されていた。ミキは何も言わず、向かい側で食べ始めた。
「好きなの食べていいよ」
そう言われて、私も箸を伸ばした。味は悪くなかった。むしろ美味しかった。けれど、妙に油が重く、口に入れるたびに喉が渇いた。途中で水を飲もうとしたが、テーブルの上には甘い飲み物しかなかった。
食べながら、私は何気なく聞いた。
「毎日、こんな感じなの?」
ミキは頷き、「昨日はアイスのケーキも食べた」と言った。事実を伝えるだけの声だった。
それから何度か家に遊びに行ったが、出てくる食べ物は変わらなかった。量も、組み合わせも。ミキの話題はほとんどが食事のことだった。昨夜はシチューを何杯食べたとか、オムライスが大きかったとか、デザートが三種類あったとか。楽しそうでも苦しそうでもない、淡々とした口調だった。
私は次第に、その話を聞くのが怖くなっていった。
違和感を覚えたのは、ミキの母親の存在だった。細くて、整った顔立ちで、年齢がわからないほど若々しかった。昔、モデルをしていたとミキは言っていた。けれど、食事の場に母親がいるところを一度も見なかった。いつも別の部屋にいるらしく、声も聞こえない。
リビングの壁には写真が飾られていた。幼い頃のミキだという。大きな目、細い手足、透けるような肌。今の姿とは結びつかないほど整った子どもだった。
「これ、ほんとにミキ?」
そう聞くと、彼女は少し笑って頷いた。
「太る前。ママが飴ばっかりくれてた」
言い方が軽すぎて、私はそれ以上何も言えなかった。
学校で保健の授業があった。栄養と運動の話で、明らかにミキを意識した内容だった。先生の声を、ミキは無表情で聞いていた。私は横目で彼女を見て、指先が小刻みに震えているのに気づいた。
放課後、つい口にしてしまった。
「ちょっとは運動したら?」
ミキは考えるような間を置いてから、静かに言った。
「ママが、食べなきゃだめって言うの」
その目が、ひどく遠くを見ているように感じられた。

ある日、駅前でミキの母親を見かけた。
白い服を着て、雑誌の撮影のように人目を引く美しさだった。その少し後ろを、太った少女が歩いていた。
ミキではなかった。けれど、よく似ていた。同じ輪郭、同じ雰囲気。ただ、どこか微妙に違う。私は視線を逸らし、その違和感から逃げた。
その少し後、ミキは学校に来なくなった。理由は「体調不良」とだけ伝えられた。夏休みが明けても、彼女の席は空いたままだった。
数年後、高校生になった私は、偶然あの家の前を通った。外観は変わっていなかったが、ガレージには車が増えていた。白い車が何台も並んでいた。
玄関先で、母親と話している少女がいた。ミキだと思った。だが、近づくにつれて違うとわかった。目の形が違う。鼻筋が高い。けれど、体つきはあの頃のミキと同じだった。
家の中から、笑い声が聞こえた。別の少女の声だった。
その家には、太っている少女がもうひとりいる。
たぶん、ひとりではない。
ミキはもう、どこにもいない。けれど、あの家では今日も誰かが食べている。美味しいと言いながら、笑いながら。
私が知ってしまったのは、それだけだ。
[出典:902 :可愛い奥様:2008/07/16(水) 16:04:41 ID:wYu52uGR0]