一月の冷気は、古いコンクリートの建物の隙間から容赦なく忍び込んでくる。
会場となったのは、地元でも長く続いているという割烹居酒屋の二階だった。階段を上がるたびに、古びた木材が軋む音と、煮染められたような出汁の匂い、それに混じる安っぽい芳香剤のラベンダー臭が鼻をついた。
小学校の同窓会。
三十路を過ぎたかつての子供たちが集まるその場には、独特の粘り気のある空気が漂っている。久しぶりの再会を喜ぶ高揚感と、互いの現状を探り合う視線の鋭さが、鍋の湯気の中で混ざり合っていた。
私は、愛想笑いを浮かべてビールを呷りながら、胸の奥で燻る居心地の悪さを感じていた。
腹の底に冷たい石が一つ、転がっているような感覚だ。
それは単に、久しぶりの旧友たちに対する緊張ではない。もっと根源的な、自分の過去に対する後ろめたさが、アルコールの作用とは裏腹に意識を覚醒させていたのだ。
私は、いわゆる「クソガキ」だった。
今の私を知る人間は誰も信じないだろうが、小学生の頃の私は、悪意の塊のような子供だったのだ。
他人の筆箱の中身を隠すなど序の口。給食のパンを潰してロッカーの裏に押し込む、掃除用具入れに閉じ込める、上履きの中に画鋲を仕込む。そんな陰湿な悪戯を、息をするように繰り返していた。
教師に怒鳴られ、廊下に立たされることなど日常茶飯事。クラスメイトからは忌み嫌われ、避けられていた。当然だ。私自身、当時の自分を思い出すだけで吐き気がする。
だが、そんな私の記憶の中に、一人の少女の姿が鮮明に焼き付いている。
麻実子だ。
彼女はこの世の善性を凝縮したような少女だった。成績優秀で、身嗜みは常に清潔。先生からの信頼も厚く、クラスの中心にはいつも彼女がいた。
そして彼女は、決して私を見捨てなかった。
「仲間外れはよくないよ」
そう言って、誰もが避ける私に声をかけてくるのだ。その透き通った瞳で見つめられるたび、私は苛立ちを募らせた。彼女の正しさが、私の歪みを際立たせるようで我慢ならなかったのだ。偽善者め。心の内でそう毒づきながら、私は彼女の差し伸べた手を振り払っていた。
卒業から十数年。
私はあれほど荒れていた性質が嘘のように鳴りを潜め、地味で目立たない、平穏な人生を選び取っていた。麻実子とは卒業以来、一度も顔を合わせることはなかった。
風の噂で、彼女が中学二年の頃から不登校になり、そのまま引きこもり続けていると聞いた時は、耳を疑った。あの太陽のような少女が、なぜ。
今日の同窓会にも、当然のごとく彼女の姿はなかった。
「いやあ、懐かしいなあ」
隣に座った男が、赤ら顔で私の肩を叩いた。健太だ。昔は小柄で泣き虫だったが、今では腹の出た中年太りの予備軍になっている。
「お前もさ、随分変わったよな。昔はあんなに面白かったのに、すっかり大人しくなっちゃって」
健太の言葉に、私は曖昧に頷いた。
「まあね。昔は俺、本当に酷いことばっかりしてたからさ。今思い出すと黒歴史だよ、本当に」
私は自嘲気味に笑い、グラスに残った温いビールを飲み干した。懺悔のつもりだった。過去の自分を笑い話にすることで、この場に漂う微かな罪悪感を払拭したかったのだ。
「男子の上履きに画鋲入れたりさ、トイレの上から水ぶっかけたり……本当、クズだったよな」
一瞬、周囲の雑音が遠のいた気がした。
テーブルを囲んでいた数人の視線が、私に集まっている。
だが、その目は私の予想していたものとは違っていた。「ああ、そんなこともあったな」という懐古の色ではない。
困惑。あるいは、憐憫。
奇妙な沈黙が落ちた。鍋の煮えるぐつぐつという音だけが、やけに大きく響く。
「……え? 何言ってんの?」
向かいに座っていた女性――名前は確か、由美だったか――が、眉をひそめて首を傾げた。
「それ、麻実子ちゃんの話でしょ?」
心臓が、ドクリと大きく脈打った。
「は?」
間抜けな声が出た。
「いや、俺だよ。俺がやったんだよ。先生に竹刀で叩かれそうになって逃げ回ったじゃん」
私は早口で捲し立てた。自分の記憶を否定されることへの生理的な拒絶反応だった。あの痛みも、廊下の冷たさも、先生の怒声も、全て私の皮膚感覚として残っているのだ。
しかし、由美は不思議そうに隣の友人と顔を見合わせた。
「違うよ。あんたはずっと教室の隅っこで本読んでたじゃん。たまにボソッと面白いこと言うから、男子には人気あったけど」
「そうそう。で、麻実子があんたのこと目の敵にして、教科書隠したりしてたんだよね」
健太も同意するように頷く。
「俺、麻実子にやられた画鋲の跡、まだ足の裏に残ってる気がするもん。あいつ、優等生の顔して裏ですげえ陰湿だったよな」
空気が、歪み始めた。
視界の端がぐにゃりと曲がるような、強烈な目眩を覚えた。
何を言っているんだ。
優等生の麻実子が? いじめっ子?
隅っこにいた私が? 人気者?
まるで安っぽいパラレルワールドに迷い込んだような浮遊感。だが、周囲の人間たちの表情は真剣そのものだ。彼らは冗談を言っているわけでも、私をからかっているわけでもない。
彼らの脳内にある「事実」を、淡々と語っているだけなのだ。
「あいつ、中学で不登校になったのも、自業自得って言われてたよな」
「そうそう。小学校の時の悪行が全部バレて、誰も相手にしなくなったんだっけ」
「ざまあみろって感じ」
飛び交う言葉の一つ一つが、鋭利な刃物となって私の鼓膜を突き刺す。
彼らが語る「麻実子」は、私の記憶の中にいる「私」そのものだった。
そして彼らが語る「私」は、私の記憶の中にいる「麻実子」の立ち位置に限りなく近かった。ただし、聖人君子としてではなく、無害な傍観者として。
私の背中を、嫌な汗が伝い落ちる。
店内の暖房が効きすぎているせいではない。
何かが決定的に食い違っている。
その違和感の正体を突き止めようと記憶の糸を手繰り寄せた時、ある一つの光景が脳裏にフラッシュバックした。
そうだ。あれだけは、間違いない。
あれほどの事件を、記憶の改竄で済ませられるはずがない。
私は震える手で膝を掴み、彼らの会話を遮るように口を開いた。
「じゃあ……あのガラスの件は?」
「ガラス?」
由美が箸を止め、小首を傾げる。
私は乾いた唇を舐め、記憶の奥底に沈殿していた最も重い罪を引っ張り出した。
「ほら、掃除の時間にさ。俺、浩二の足引っ掛けて……廊下のガラス戸に突っ込ませただろ。あいつ、腕切って大怪我したじゃん。救急車来て、大騒ぎになった……」
あれは小学六年の冬だった。
掃除の時間、ふざけ合っていたのではなく、私は明確な悪意を持って浩二の足を払ったのだ。バランスを崩した浩二の体は、スローモーションのように廊下のガラス戸へと倒れ込んだ。
ガシャン、というけたたましい破砕音。
飛び散る破片。
白いワイシャツが瞬く間に赤く染まっていく光景。
先生の怒声。飛んできた唾の温かさ。
「お前、なんてことしたんだ!」
首根っこを掴まれ、職員室へ引きずられていく時の、床のワックスの匂いまで覚えている。
浩二は腕を数針縫う大怪我を負った。それは私の「いたずら」が、決定的な「加害」へと変わった瞬間だった。
「ああ、その話か」
声を上げたのは、テーブルの端で黙々と焼酎を飲んでいた男だった。
浩二だ。
かつて私が傷つけた被害者本人。
彼は袖を捲り上げ、右の前腕を私たちに見せた。そこには、ミミズ腫れのような白っぽい傷跡が、十数年経った今もくっきりと刻まれていた。
「これな。痛かったよなあ、あれ」
浩二は懐かしむように傷跡を指でなぞる。
私は息を呑んだ。傷はある。事実はあったのだ。私の妄想ではない。
「ごめん、浩二。俺、本当に……」
謝罪の言葉を口にしようとした私を、浩二の言葉が遮った。
「お前が謝ることないだろ。やったの、麻実子なんだから」
時が止まった。
箸を置く音、グラスの氷が溶けて崩れる音、隣の客席の笑い声。すべてが遠くへ退いていく。
「……え?」
「だから、麻実子だよ。あいつがいきなり俺の足蹴っ飛ばしてさ。俺、ガラスに突っ込んで。あの時のあいつの顔、今でも覚えてるわ。なんか、能面みたいに無表情でさ。突っ立ってじっと俺の血を見てんの」
嘘だ。
それは私の記憶だ。
あの日、ガラスに突っ込んだ浩二を見て、私は恐怖で動けなかった。その硬直を、周囲は「冷酷に見下ろしている」と捉えたのかもしれない。だが、そこに立っていたのは私だ。麻実子ではない。
「違う……俺だよ。俺が先生にボコボコに怒られて……」
「お前なあ」
健太が呆れたように溜息をついた。
「お前はずっと教室にいたろ。事件のあと、雑巾持って走ってきたじゃん。で、顔面蒼白になって震えてた。優しいやつだなーって俺思ったもん」
否定すればするほど、彼らの記憶の中の「私」は善人になり、「麻実子」は怪物になっていく。
私の脳内にある「事実」と、外部にある「事実」が激しく衝突し、軋みを上げていた。
浩二が続ける。
「あの後、大変だったんだぜ。麻実子の親が学校乗り込んできてさ。でも結局、治療費と慰謝料、すげえ額包んできたって親が言ってた。金で解決しようとするあたり、親も親だよな」
金で解決。
その言葉を聞いた瞬間、私の記憶の「空白」が疼いた。
あの日。
私は担任に一時間以上も怒鳴り続けられた。「親に電話する」「ただじゃ済まないぞ」と脅され、夕暮れの通学路をとぼとぼと帰った。
家の玄関を開けるのが怖かった。親になんて言われるか。殴られるか。勘当されるか。
心臓が破裂しそうなほどの恐怖を抱えて帰宅した私を待っていたのは、いつもと変わらない両親の姿だった。
「おかえり。ご飯できてるわよ」
母は笑顔でそう言った。父はテレビを見ながらビールを飲んでいた。
私は狐につままれたような気分で夕飯を食べ、風呂に入り、布団に潜り込んだ。電話が鳴るのを怯えながら待っていたが、電話は鳴らなかった。
翌日、学校に行っても、担任は私に「おはよう」と普通に挨拶をした。浩二も包帯を巻いて登校していたが、私を責めることはなかった。
私はそれを、「大人の事情」で処理されたのだと解釈していた。子供には言えない裏取引があったのだろうと。あるいは、私の罪悪感が作り出した過剰な恐怖だったのかと、無理やり納得して記憶の蓋を閉じたのだ。
だが、もし。
もし、あの時、私の罪が「無かったこと」にされていたのだとしたら?
いや、無かったことではない。
「麻実子がやったこと」として処理されていたとしたら?
「麻実子の親が、金を払った」
浩二の言葉がリフレインする。
私の両親は何も知らなかったのではない。
私の罪を、他人に売り渡したのか?
いや、そんな現実離れしたことができるはずがない。だが、目の前にある浩二の傷跡と、クラスメイト全員の一致した記憶は、それが「現実」であることを突きつけてくる。
私は急激な尿意と吐き気に襲われ、席を立った。
「ちょっと、トイレ」
足元がふらつく。
トイレの個室に入り、鍵をかけると、ようやく呼吸ができた。
狭い空間。芳香剤のきつい匂い。
私は鏡の中の自分と対峙した。
疲れた顔をした、特徴のない男。
これが私だ。クラスメイトが言う「大人しくて、ちょっと面白い奴」。
私の記憶の中にある「凶暴で、悪意に満ちた私」はどこに行った?
ふと、ポケットの中でスマートフォンが振動した。
メッセージの通知ではない。着信だ。
画面を見ると、登録されていない番号が表示されている。
市外局番は、私の実家と同じエリアのものだった。
嫌な予感が背筋を駆け上がる。
このタイミングで。この場所で。
私は震える指で、通話ボタンをスライドさせた。
「……もしもし」
『……あ』
スピーカーから聞こえてきたのは、微かな、掠れたような女性の声だった。
ノイズ混じりのその声は、湿度を帯びていて、耳元に直接息を吹きかけられているような不快感があった。
『……聞こえる?』
「誰ですか」
『……忘れたの? あなたの代わりに、全部やってあげたのに』
心臓が凍りついた。
その声の響きに、聞き覚えがあったからではない。
その声が、私の記憶の中にある「麻実子」の声とは似ても似つかない、低く、澱んだものだったからだ。
だが、直感が告げていた。これは彼女だと。
『痛かったよ。みんなに無視されるのも、先生に殴られるのも』
彼女は淡々と語る。感情の起伏がないことが、逆に底知れぬ恨みを感じさせた。
『あなたの親、泣いて頼んできたのよ。うちの子の将来を潰さないでくれって。だから、私が貰ってあげたの。あなたの泥を、全部』
「お前、何を……」
『だから、あなたは綺麗なんでしょ? 真っ白で、無害で、誰からも好かれるあなた』
受話器の向こうで、クスクスという笑い声が聞こえる。
『でもね、もう入らないの』
「え?」
『もう満杯なの。私の箱、もういっぱいなの。これ以上、あなたのゴミを引き受けられない』
唐突に、通話が切れた。
ツー、ツー、ツーという電子音が、私の鼓膜を虚しく叩く。
私は呆然とスマートフォンを見つめた。
今の電話はなんだ。
麻実子は、引きこもっているはずだ。十数年も、社会から隔絶された部屋で。
私が犯した罪を背負わされ、私の代わりに「悪役」として生きることを強制された彼女は、その部屋で一体何をしていたのか。
トイレのドアをノックする音が聞こえた。
「おい、大丈夫か? 長いぞ」
健太の声だ。
私は慌ててスマホをポケットに突っ込み、「今出る」と答えた。
手を洗い、顔に水をかける。
鏡を見る。
私の顔は、さっきと変わらない。
だが、何かが決定的に変わってしまった気がした。
席に戻ると、話題はすでに別のことに移っていた。
しかし、私はもう会話に入っていけなかった。
視界の端に、違和感があったからだ。
座敷の隅。壁際の、照明が届きにくい薄暗い場所。
そこに、誰かが座っている気がした。
誰もいないはずの空間。
だが、そこから強烈な視線を感じる。
鍋の湯気が、その場所だけ避けるように揺らめいている。
「ねえ、集合写真撮ろうよ!」
由美が提案し、皆が賛成した。
店員を呼び、スマホを渡して全員でカメラに収まる。
「はい、チーズ!」
フラッシュが焚かれた瞬間、私は見てしまった。
光が炸裂した一瞬、壁際の闇の中に、女性の輪郭が浮かび上がったのを。
長い黒髪。白い肌。
そして、その顔は――。
撮影された写真をその場で確認し、由美が歓声を上げる。
「あ、いい感じ! みんなグループLINEに送るね」
すぐに私の手元のスマホが震えた。
送られてきた画像を開く。
三十路を過ぎた男女が、赤ら顔でピースサインをしている。ありふれた同窓会の写真。
私は震える指で画像を拡大し、隅の方を確認した。
壁際。
そこには、何も写っていなかった。
ただの壁と、脱ぎ捨てられた誰かの上着があるだけだ。
安堵の息を漏らした、その時だった。
「あれ?」
隣で同じ写真を見ていた健太が、首を傾げた。
「俺、こんな顔してたっけ?」
「え?」
「いや、なんか……俺の顔、薄くない?」
言われて、もう一度写真を見る。
健太の顔は、確かに写っている。だが、ピントが甘いというか、輪郭が微妙にぼやけているように見えた。
それだけではない。
由美も、浩二も、他のクラスメイトたちも。
全員の顔が、どこか能面のようにのっぺりとして、生気がない。
まるで、精巧に作られた蝋人形が並んでいるようだ。
そして、写真の中央にいる私だけが。
異常なほど鮮明に写っていた。
肌の毛穴、瞳の光の反射、着ているシャツの繊維の一本一本までが、不気味なほど高解像度で切り取られている。
周囲が背景として溶けていく中で、私という存在だけが、異物のように浮き上がっていた。
『もう入らないの』
先ほどの電話の声が蘇る。
満杯になった箱。
彼女は言った。「あなたのゴミを引き受けられない」と。
それは、これ以上罪を肩代わりできないという意味ではなかったのかもしれない。
もっと物理的で、根源的な「容量」の話だとしたら。
私は猛烈な寒気に襲われ、自分の身体を抱きしめた。
その時、気づいた。
痛みだ。
右腕の前腕に、鋭い痛みが走った。
服の上から腕をさする。何かが濡れている。
私は恐る恐る、ジャケットの袖を捲り上げた。
白いワイシャツの袖が、じわりと赤く染まっていた。
「うわっ!」
思わず声を上げる。
周囲が驚いて私を見る。
「どうした? 鼻血か?」
「いや、腕が……」
私はワイシャツのボタンを外し、腕を剥き出しにした。
そこには、ぱっくりと開いた切り傷があった。
まるで、鋭利なガラス片で切り裂かれたばかりのような、生々しい傷口から、鮮血が滴り落ちている。
「え、お前、いつ怪我したんだ?」
浩二が驚いて声を上げる。
しかし、その浩二の腕を見ると――彼の右腕にあったはずの、あの古傷が消えていた。
ツルリとした、何事もなかったかのような肌。
「……返された」
私の口から、乾いた言葉が漏れた。
そうだ。これは私の傷だ。
私が浩二に負わせたはずの傷。あるいは、私が本来受けるべきだった罰としての痛み。
それが今、所有者の元へ帰ってきたのだ。
会場の空気が、急激に変質し始めた。
クラスメイトたちの顔から、表情が抜け落ちていく。
「何を言ってるの?」
由美が口を開くが、その声はどこか機械的で、抑揚がない。
「早く病院に行かなきゃ」
健太が言うが、その目は私を見ていない。虚空を見つめている。
私は理解した。
彼らの記憶が「改変」されていたのではなかった。
彼ら自身が、希薄なのだ。
私の罪を麻実子が吸い上げ、私が「無害な善人」として生きるために、世界そのものが調整されていた。
私の周囲の人間は、私を肯定するための舞台装置に過ぎなかったのではないか。
そして今、その調整機能が破綻した。
麻実子という「ゴミ箱」が溢れ、収容しきれなくなった罪と現実が、逆流を始めたのだ。
「う、あ……」
傷口だけでなく、全身が痛み始めた。
足の裏に、画鋲が刺さる激痛。
頭から冷水を浴びせられたような悪寒。
背中を竹刀で殴打される鈍痛。
かつて私が他人に行い、あるいは私が行ったことによって受けるはずだった報復の全てが、時間差で私の肉体に押し寄せてくる。
視界が点滅する。
薄れゆく意識の中で、私は再び、あの壁際の闇を見た。
今度は、はっきりと見えた。
そこに、麻実子がいた。
小学生の頃の姿のままで。
赤いランドセルを背負い、小奇麗なスカートを履いた彼女は、じっと私を見つめていた。
だが、その顔には目も鼻も口もなかった。
のっぺらぼうの顔の真ん中に、ただ一つ、巨大な「穴」が開いていた。
底なしの、暗黒の穴。
そこから、黒い泥のようなものが溢れ出している。
それは私の罪だ。私の悪意だ。
私が長年、彼女に押し付けてきた汚物だ。
『もう、いらない』
頭の中に直接響く声と共に、少女の姿が崩れ落ち、黒い泥となって床を這い、私の方へと押し寄せてくる。
私は逃げようとしたが、足が動かない。
足元を見ると、私の足はすでに泥の中に沈み、溶け始めていた。
「助け……」
手を伸ばし、浩二に縋り付こうとした。
しかし、私の手が浩二の肩に触れた瞬間、浩二の体が煙のように揺らぎ、消失した。
由美も、健太も、店員も、居酒屋の風景さえも。
すべてが蜃気楼のように揺らぎ、掻き消えていく。
残されたのは、暗闇と、腐臭を放つ泥の海だけ。
そして、その泥は私の口へ、鼻へ、耳へと侵入してくる。
私は悟った。
記憶が違っていたのではない。
私という存在そのものが、麻実子の見た「悪夢」だったのだ。
彼女の孤独な部屋の中で、彼女の精神を守るために切り離された「悪意の化身」。それが私だった。
私が彼女をいじめたのではない。彼女の中にあった攻撃性が、私という形をとって実体化していただけなのかもしれない。
そして今、主人は不要になった道具を片付けようとしている。
泥が喉を塞ぐ。
息ができない。
意識が黒く塗りつぶされていく中で、最後に一枚のビジョンが見えた。
薄暗い部屋。
散乱したゴミ袋と、万年床。
その中心で、三十代の女性が一人、スマートフォンを握りしめてうずくまっている。
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。
その顔は、私だった。
いや、私が「今の私」だと思っていた、平凡な男の顔をしていた。
彼女は――いや、彼は、ニヤリと笑った。
「やっと、軽くなった」
私の意識はそこで途切れ、二度と浮上することはなかった。
私がいた場所には、ただ、古いランドセルが一つ、転がっているだけだった。
(了)
[出典:2015/01/03(土)16:32:17 ID:cKb]