中学一年のある春、自分は朝刊の配達をしていた。
家計を助けるため——などという立派な理由はなく、単に小遣いが欲しかった。任されたのは、地域でも有名な大きな団地だった。一棟だけで十数階建て、周囲の建物より頭ひとつ抜けて高く、朝の霧のなかでは煙突のように浮かび上がっていた。
その団地では、過去に何度か飛び降り自殺があった。噂話として語られるその死者たちは、誰の記憶にも曖昧に、しかし確かに引っかかっていた。いわく、「夜中に誰もいない階で呼び止められた」「一度だけ、誰かとすれ違った」。そんな話を聞いてしまったせいで、最初の一ヶ月、自分は配達のたびに全身を強ばらせていた。
とはいえ、人間は慣れる。最上階までエレベーターで上がり、そこから階段で一階ずつ新聞を入れていく。ルーティンは体に染み込んでいき、怖さも薄れていった。
ある朝、配達を終えたところで、一件だけ新聞と一緒にチケットを入れるのを忘れたことに気づいた。その家は十一階。再び団地のエレベーターを呼び出す。エレベーターは最上階で止まっていた。十一階で用事を済ませ、戻ってきたときには、エレベーターはまだ上にあった。
ボタンを押して待つ。すると、一階上——十二階でカチリと止まる音がした。
そこには階段もすぐ横にある。誰かが階段を使って上ったなら、足音がするはず。でも、何も聞こえなかった。気配もなかった。にもかかわらず、エレベーターはそこに止まっていた。
嫌な予感がした。生温い風が首筋を撫でるような、耳の奥がうずくような感覚。動けない。冷や汗が背中を伝い、鳥肌が立つのが自分でも分かった。
そして——エレベーターは自分の階に着いた。
扉が開く瞬間、空気が変わった。湿った木綿のような重さ。髪の毛が逆立つというのは、あの感覚を言うのだろう。
そこには、二人いた。
一人は中年の女性、小太りで、古びたオレンジのレインコートを着ている。その隣には、小さな女の子。ピンクのレインコート。二人は手をつなぎ、こちらに背を向けてじっと立っていた。沈黙のまま、動かない。
目を合わせなかった。というより、二人ともこちらを一切意識していなかった。
十数秒の沈黙が、永遠のように続いた。心臓の音が、耳の裏で暴れていた。
扉が閉まり、エレベーターは再び上昇していった。
自分はそのまま階段を駆け下り、配達所に戻って「もうやめます」とだけ言って、家に帰った。引き止められても何も言わなかった。
後日、他の配達員に話を聞くと、同じような体験をした人はいなかった。だが、「声がした」「誰かいた気がする」と言って、いつの間にか辞めていった人は何人もいたという。
生きていたか、死んでいたかは問題ではなかった。あれは、「何かがいた」という確かな記憶でしかない。
彼女たちは、どこへ向かっていたのだろう。
そしてあの朝、自分が一階ではなく、彼女たちのいる“上”に向かっていたとしたら——。