修学旅行の夜って、あんなに異様な雰囲気になるものなんだろうか。
いまだに夢の中の出来事だったんじゃないかと思うくらい、現実味がない。だけど、Aのあの目……、あれだけは絶対に現実だった。
中学二年の冬、行き先は京都。
寺だの神社だの、そんなものにはまったく興味がなかったけど、仲のいい連中と過ごせる三日間には、それなりにワクワクしていた。
旅館は古びた木造建築で、廊下がギシギシ鳴るたびに、ふざけて「今の足音、幽霊じゃね?」なんて言い合っていた。
問題の夜は、二日目の夕食と風呂が終わったあとの自由時間だった。
俺は隣の部屋にいた連中とカードゲームで遊んでいて、ひとしきり盛り上がったあと、誰かが「怖い話やろうぜ」と言い出した。
定番の流れだったし、みんなそれぞれ知ってる話を披露しはじめた。輪になって、明かりを落として……雰囲気づくりも抜かりなかった。
四人目の話が終わったところで、Aが口を開いた。
「この手の旅館ってさ、出るんだってよ。御札とかが隠してあるんだと。絵の裏とか押し入れとか……探してみるか?」
半分茶化したような言い方だったけど、誰も止めなかった。
むしろ、どこか期待していたのかもしれない。話が本当なら、盛り上がるし。で、冗談でも、なにか見つけたら記念になる……そんな軽い気持ちだった。
だが、部屋中を探しても何も出てこなかった。
そろそろ飽きてきた頃、どこからか始まった枕投げがこの部屋にも波及してきて、そこからはもうカオスだった。
枕が布団になり、布団がプロレス技になり、汗だくで暴れまわっていたときだった。
「あれ……天井、なんかない?」
誰かが見上げてそう言った。
その旅館の部屋の片隅に、妙に浮いて見える四角い板。点検口だった。
普通の家だと洗面所あたりにあるようなものが、どういうわけか客室に設置されている。
Aがそれに気づいた瞬間、目を輝かせたのを今でも思い出す。
「おい、入ってみようぜ!向こうの部屋までつながってるかもよ!」
俺は真っ先に拒否した。暗所も閉所もダメだ。
他の連中も疲れてるとか汚れるとか言って逃げた。
それでもAはやる気満々で、「じゃ、俺が入るから、馬になってくれ」と言い出す。
二段の馬を作って、Aが点検口を開けると、埃がパラパラと舞い落ちてきた。
その奥には、真っ黒な空間が広がっていた。
「なんだよ……暗いな……」
独り言のように言いながら、Aは頭を突っ込んだ。
「……あ」
小さく漏らした声に、みんなの動きが止まった。
「なんかある!」
次の瞬間、彼は天井裏に突っ込んでいた両腕を引き抜き、何かを手に持っていた。
頭を出すため、腕を残して中から出てくる。
そして、その手に握られていたものを見た瞬間、全員が息を呑んだ。
汚れた和紙の人形、黄ばんだ御札、赤黒い表紙の小さな本。
人形は和紙でできていて、片目が潰れているように見えた。御札には、かろうじて読める範囲の文字が墨で書かれていて、小さな赤い本の表紙には、何語かすら分からない黒々とした記号が浮かんでいた。
「うわっ、なんだよこれ……!」
Aは興奮なのか恐怖なのか分からない顔をして、それらを俺たちに投げつけてきた。
誰も受け取る者はいない。本は畳にバサリと落ち、人形はヒラヒラと空を舞いながら部屋の隅に落ちた。
不自然な角度でナナメに立ち、こっちを睨んでいるように見えた。
Bが震え声で「それ、やばいから戻せよ……」と言った。
Aもようやく正気に戻ったのか、「ごめん」と呟いて、人形と御札と本を拾い、再び点検口に戻した。
それからの時間は、誰も話さなかった。
空気が完全に凍りついていた。
Aの部屋にあったその「モノ」と、何か視線のようなものが、ずっと残っている気がして……。
その夜、消灯時間になって、先生たちの巡回が始まった。
部屋の扉は少しだけ開けられ、廊下の明かりが入ってきた。
先生の足音がパタッパタッと通り過ぎるのが、逆に安心材料になって、俺はそのまま眠りに落ちた。
……どれくらい眠っていたのか分からない。
「ドンッ!」と鈍くて重たい音が、夢の中を破るように響いた。
何の音だ……と思っていた矢先、立て続けに「ドンッ!ドンッ!」という爆音と、叫び声が聞こえた。
隣の部屋。Aのいた部屋だ。
廊下から先生の怒鳴り声が響く。「どうしたっ!」
俺たちも慌てて隣に駆け込むと、Aが……異常だった。
白目をむき、壁に向かって手足をバタバタと振り回していた。
「やめろ!くるな……手が!手が出てきてる!壁から手がぁぁああっ!」
S先生が押さえようとしても、Aは異常な力で暴れまわっていた。
失禁して、泡を吹き、絶叫し続けるその姿は、もはや「A男」じゃなかった。
誰かが叫んだ。「救急車を呼べ!」
誰が呼んだのかは、結局わからなかった。
けれど、信じられないことに、数分も経たず救急車が到着した。
だが、もっと不可解なのは――救急隊員の顔が、見えなかった。
いや、見えていたのかもしれない。でも、黒い何かがかぶさっていて、影のようにしか感じられなかった。
タンカに固定されても、Aは暴れ続けた。
「戻せ!戻せええええっ!あれを元に戻せええええっ!!」
そう叫んだのを、俺は聞いた。
翌朝、Aの姿はなかった。
先生は「体調を崩して帰った」と説明したけれど、納得できる者なんていなかった。
さらに謎だったのは、旅館の一室に全員が集められたことだ。
正座をさせられ、旅館のスタッフ、そして白装束の神主が三人現れ、二時間に渡る儀式のようなものが行われた。
そのあとは何もなかった。
だが、Aは二度と学校に戻ってこなかった。
転校したと言われたが、彼の家は忽然と消え、家族ごと消息不明になった。
……今でも、思い出す。
畳の上に立っていた、あの人形。
あれは、本当に紙でできていたのか?
生きて、いたんじゃないのか?
あの点検口を、開けるべきじゃなかったんだ。
そこにいたのは「モノ」じゃない。
俺たちは、何かを“起こして”しまったんだ――。
[出典:576 :通りすがりの名無し:2006/12/13(水) 18:31:56 ID:pf1GsXTF0]