今でもあの夕方の空の色を思い出せる。
雲の切れ間から漏れた光が、濡れた地面に反射して、町全体がぼんやりと金色に染まっていた。夏でもないのに、空気がぬるい。鼻をくすぐる草の匂いに混じって、線香のような焦げた匂いが漂っていた。
そのとき、神社の鳥居の前でそれを見た。
拳ほどの光の玉。白というより、淡い青のような、濁った黄のような、見ようとすると色が逃げる。
光は地面から少し浮いて、風もないのにゆらゆらと揺れていた。
息を吸い込んだ瞬間、喉が熱くなった。怖いというより、何かを呼ばれている気がした。家に走って戻り、台所にいた母の腕を引っ張った。
「光がある。ほんとだよ、早く」
母は半信半疑の顔でついてきた。
鳥居の前に戻ると、光はまだいた。
母は私の肩越しにのぞきこみ、言葉を失ったように立ち止まった。
「……何、これ」
指先を伸ばした瞬間、光がふわりと母のほうへ近づいた。
その手が光をつかむ前に、母が息を呑み、私の腕をつかんだ。
「帰ろう」
理由も言わず、強く、痛いほどの力で引かれた。
夕飯の席でその話をすると、兄が笑った。
「嘘だ。そんなのあるわけない」
私は母を見た。「お母さんも見たよね」
母は箸を止めたまま、何も言わなかった。
兄がまたからかうので、「見たでしょ?」と詰め寄ると、母は急に怒鳴った。
「いいから早く食べなさい!」
それきり、その話は家で禁句になった。
しばらくして伯母が訪ねてきた。母より少し年上の、いつも香水ではなく、線香のような匂いをまとっていた人だ。
伯母は私に小さな布のお守りを首にかけた。
「○○ちゃんが病気や事故に遭わないようにね」
中には何が入っているのか、聞いても教えてくれなかった。
ただ、「なくさないようにね」と言ったとき、少しだけ笑って、目尻が湿っていた。
私はお風呂とプールのとき以外は、ずっとそれをつけていた。
それから光の玉を見ることは、ほとんどなくなった。たまに視界の端を横切ることがあったけれど、目をこすれば消える。
でも、消えるたびに、お守りの中で何かが“動く”気がした。
ある日、帰宅すると伯母がまた来ていた。
「お守り、どうしたの?」
首を触ると、紐ごとなくなっていた。心臓が跳ねた。
「あれ?どこかに落としたのかな。学校かも」
外に出ようとすると、伯母が私の肩を押さえた。
「いいの。もういいよ」
「またくれるの?」
「ううん。もう役目が終わったの」
母はその間、何も言わなかった。ただ伯母と目を合わせずに、台所の鍋をかき混ぜていた。
その夜、寝る直前に、部屋の隅が白く光った。
音はないのに、耳の奥で“しん”という高い音が響いた。
目を開けると、光の玉がまたそこにいた。前よりも小さく、白さが濃い。
怖いよりも、なつかしい気がした。
次の朝、布団の上に小さな焦げ跡が残っていた。
焦げ跡の匂いは、少し甘かった。
線香に似ていたが、もっと柔らかく、胸の奥に残るような匂いだった。
母に見つかると、きっと怒られる。私はシーツを裏返し、何事もなかったふりをした。
その夜から、夢をよく見るようになった。
夢の中では、私は必ず神社の前に立っている。
空はいつも夕方の色。鳥居の向こうから、あの光がゆらゆらと浮かび出る。
光は私の顔の高さまで来て、まるで覗き込むように止まる。
中に、目のようなものが見える時もあった。
ある晩、夢の中で母の声がした。
「近づいちゃだめ」
振り向くと、母が鳥居の外に立っていた。
けれど、口は動いていなかった。声だけが私の中に響いた。
目が覚めたとき、胸のあたりが妙に温かかった。
手を入れてみると、そこにあるはずのないものが触れた。
お守りだった。
紐は切れ、布は焦げていた。けれど確かに、あの伯母からもらったお守りだった。
次の日、学校から帰ると伯母がまた来ていた。
母と二人、居間で小声で話していたが、私の気配に気づくと黙った。
「ねえ、これ……戻ってきた」
お守りを差し出すと、伯母の顔色が変わった。
母は無言で立ち上がり、仏壇のある部屋に向かった。
伯母は私の手を包み込んで、「今夜は早く寝なさい」とだけ言った。
その夜、夢の中で光は一つではなかった。
鳥居の向こうにいくつも浮かび、境内を漂っていた。
耳元で、誰かの声が囁いた。
——お守りは“鍵”なんだよ。
目を開けると、部屋の空気が青白く光っていた。
まるで、光が布団の中まで染みてくるようだった。
喉の奥が熱くなり、思わず息を吐くと、そこから白い煙のようなものが漏れた。
その煙がゆっくりと立ち上り、やがて小さな玉になって、天井の方へ昇っていった。
翌朝、伯母が亡くなったと聞かされた。
寝ている間に静かに息を引き取ったという。
母は台所の椅子に座ったまま、長い時間、何も言わなかった。
葬儀の日、伯母の枕元に立ったとき、線香の煙がまっすぐ私の方へ伸びてきた。
その瞬間、胸の奥に微かな震えを感じた。
光が、そこにいる気がした。
それから数年、光の玉を見ることはなかった。
けれど、高校を卒業して実家を出る前の晩、母が言った。
「お守り、まだ持ってる?」
私はうなずいた。
母はしばらく黙って、それから小さく笑った。
「そう。……それでいいの」
その笑い方が、昔の伯母にそっくりだった。
ふと、母の首元を見ると、薄い布紐が覗いていた。
同じ形のお守り。焦げた跡まで、私のとそっくりだった。
その瞬間、理解した。
あの光は、誰かが次の“守り手”に渡す合図なのだ。
母が私を守り、伯母が母を守り、そして今度は私が——。
今も、ときどき夢の中で光を見る。
鳥居の向こうから、ふわりと浮かんでくる。
目を閉じると、遠くで線香の香りがする。
光はゆっくりと近づき、私の胸のあたりで止まる。
——ただいま。
[出典:760 :本当にあった怖い名無し:2008/02/29(金) 23:56:45 ID:fccql5f90]