第一話:メモ
その紙切れを初めて見たのは、コピー用紙でも便箋でもなく、レジの横に積まれている薄いレシートだった。裏返すと、鉛筆で殴り書きがある。筆圧が途中で跳ね、線が折れ、同じところを何度も擦った跡がある。書こうとして、書けなかった時間がそのまま残っている。
オワレている
たすけて下さい
この男の人わるい人
言葉は短い。短すぎる。名前がない。場所がない。特徴がない。誰に向けたのかもない。助けを求めているのに、宛先が欠けている。これは通報文としての形をしていない。声を出せない人が、声の代わりに吐き出した、ただの息みたいだ。
紙の隅には日付が印字されていた。事件の日ではない。二日前だ。誰かがそれを指摘した瞬間、部屋の空気が少しだけ傾いた。二日前に追われていた。二日前に助けを求めていた。それが、そのままポケットに入ったまま、事件当日まで使われなかった。
このメモは後から見つかった。現場で拾われたわけでもない。誰かに渡されたわけでもない。助けを求める言葉が、助けを呼ぶ機能を一度も果たしていない。書いた本人は、書いたことすら誰にも伝えられずに終わった。
捜査記録の写しには、メモは証拠番号で整理され、ビニール袋に封入され、乾いた言葉で説明されている。だが実物は、もっと軽い。息をかけたら飛んでいきそうな紙だ。こんなものが、人を追い詰める力を持てるのかと思う。その軽さが逆に不気味だった。人は簡単に追われる。簡単に助けを求める。簡単に、それを胸の内にしまってしまう。
紙はくしゃくしゃに畳まれていた。握りしめた手の形が残っているように見えた。誰にも見せないために畳んだのか、見せる相手がいなかったのか、それとも、見せる相手を探している途中で終わったのか。
私はその後、何度も同じ文字列を頭の中で繰り返すことになる。オワレている。たすけて下さい。この男の人わるい人。読むたびに、文の最後がどこにも着地しない。助けて下さい、と書きながら、助ける人が存在しない文章になっている。
本当に怖いのは、殺されたからではない。紙切れが残ったからでもない。助けを求める言葉が、たった一度も届かなかったことだ。そして、その不達の証拠を、何十年も後に他人が読むことだ。読むたびに、助けを求められる相手が変わる。メモは宛先を持たないから、読む者が宛先になる。
私はそれを、資料室の蛍光灯の下で理解した。これから先、どれだけ時間が経っても、この紙切れは誰にも渡されない。渡されないまま、読む人だけが増えていく。
第二話:昼の竹林
山は大きな山ではない。地図に載るほどの名所でもない。住宅地の端にある、山裾の竹林だ。家族が子どもを連れて入る。春には筍、初夏にはワラビ。山菜採りが趣味ではない人でも、ちょっと自転車で行ける距離にある。
その日も、二人は午前の仕事を終えた。自転車で出て行く時間は、まだ昼前だ。太陽は高い。夏が近づく季節の光は強く、住宅地では洗濯物が風に揺れ、車の音も生活の匂いもある。事件という言葉が入り込む余地のない時間帯だ。
だが竹林に一歩入ると、昼は簡単に薄暗くなる。孟宗竹が密に立ち、葉が光を刻む。風が吹くたび、竹の葉が擦れて音が出る。ざわざわと、静かに騒がしい。人の声は吸われるし、遠くの音は近くに聞こえる。方向感覚が曖昧になる。山というより、壁のある迷路に入る感覚に近い。
当日は、二人だけではなかったと言われている。山菜採りの人もいた。近くで工事に出入りする人間もいた。白昼の山中で、人がいる。助けは起き得る条件が揃っている。だからこそ、読んだ人は必ず同じところで足を止める。なぜ助けが起きなかったのか。
助けは、起きなかったのではない。起こされなかったのかもしれない。声を出せなかった。声を出す暇がなかった。声が出たとしても、竹の葉のざわめきに溶けた。あるいは、誰かが聞いて、聞かなかったふりをした。昼の山では、正解が一つに定まらない。
竹林という環境は、人に言い訳を与える。あれは風だった。鳥だった。誰かの子どもの声だった。工事の掛け声だった。自分が関わらなくて済むように、音に名前を付ける。昼の生活圏にある山は、助けの可能性と同じ数だけ、見なかった理由も生む。
二人は昼前に入山し、帰ってこなかった。翌日ではなく、その日の夕方でもなく、二日後に見つかった。発見までの時間が空くほど、人の想像は増える。だが現場は、想像に比べて近い。住宅地から数キロ。近いからこそ、背筋が冷える。遠い闇ではなく、日常の縁で起きたことになる。
事件後、地元の人間が口を揃えて言うのは、山の空気が変わったという話だ。霊が出るとか、足音が聞こえるとか、そういう話ではない。もっと現実的な変化だ。入る人が減る。子どもを連れて行かなくなる。山菜の季節でも近づかない。竹林が、ただの竹林ではなくなる。
昼の竹林は、夜の森より厄介だ。夜なら最初から警戒する。昼は警戒しない。油断のまま入って、出口だけが消える。明るい時間帯に起きたことは、暗い出来事より後を引く。生活の光の中に、説明できない影が混ざるからだ。
その影の形は、今でも同じだ。竹の葉が擦れる音。湿った土の匂い。光の斑。そこに、助けを呼ぶはずだった言葉が、二日前から畳まれて入っている。その事実だけが、昼の竹林を夜のように見せる。
第三話:逃げられない
事件の話をするとき、多くの人は凶器や暴力に目を奪われる。派手で、分かりやすく、恐怖に名前が付くからだ。だが私が最初に引っかかったのは別の一点だった。逃げるための部位が、最初に壊されていた可能性があるという記述だ。
足首、アキレス腱。そこは走るための部品だ。傷つけられた瞬間、人は速く動けなくなる。立ち上がれない。転ぶ。逃げるという選択肢が、頭から抜ける。これは殺すための手順というより、逃げる未来を消す手順に見える。
暴力は相手の身体だけではなく、相手の時間を壊す。逃げられないと分かったとき、人は未来を計算できなくなる。助かる可能性の計算が消え、今ここで起きていることだけが全部になる。その状態で、人は自分の身の周りの小さなものに縋る。紙切れ、鉛筆、ポケット。二日前のレシート。助けを求める言葉が、宛先を失ったまま生まれるのは、そういう瞬間だ。
現場には所持品が残されていたと言われている。現金も、時計も、奪われていない。物取りではない。動機が分からない。だが動機の不在より、行動の一貫性の方が気味が悪い。逃げる手段を奪う。持ち物は奪わない。助けを求める言葉は残る。犯人は姿を消す。目的が見えないまま、手順だけが綺麗に残っている。
山の中で起きた暴力には、生活の常識が当てはまらない。逃げるなら下へ。声を出すなら近くの道へ。だが竹林の斜面では、方向感覚が壊れる。走れば転ぶ。転べば立てない。竹の根は絡み、土は滑る。そこに、走る部品が壊されていたとしたら、もう終わりだ。助けを呼ぶための移動が成立しない。
ここで最初の違和感が戻ってくる。メモの日付が二日前であること。二日前から追われていたという状態が本当なら、逃げられない状態は事件当日だけの話ではない。逃げる未来は、もっと早くから奪われていたのかもしれない。誰かが家の近くで。店の帰り道で。山菜の話をした日常の合間で。追われているという言葉は、山の中の出来事だけを指していない。
逃げられないという感覚は、時間を跨ぐ。被害者の生活を跨ぎ、読む側の生活にも入り込む。事件を知った人は、同じ季節になると山道を避ける。竹林の近くを通ると足が止まる。昼なのに、妙に後ろを振り返る。自分が追われているわけでもないのに、追われているという言葉が身体の使い方を変える。
私が一番嫌だったのはそこだ。事件の外にいる人間の足取りまで変えてしまう。逃げるという選択肢を、先回りして奪う。竹林が怖いのではない。追われているという言葉が、足首のあたりに移ってくる。その感覚が残る。
第四話:一人だと決めた理由
捜査は初動から大規模だったという。人を投入し、山道の土をふるい、目撃を集め、紙片を拾い上げ、凶器を押さえた。それでも犯人に辿り着けなかった。未解決事件の話としては、ここまでは珍しくない。珍しいのは、捜査の方向を決定づけたものが、あのメモだったという点だ。
二人が同時に襲われ、二人が殺されている。複数犯を疑うのは自然だ。だがメモがある。追われている、助けて下さい、この男の人わるい人。単数だ。この男の人。複数ではない。この一語が、捜査の世界を一気に狭める。犯人は一人だという結論が、推理として成立してしまう。
ここが怖い。被害者が助けを求めて残した言葉が、助けを呼ぶ代わりに、捜査を導くための鍵になった。そして鍵は、開けるだけでなく閉めるためにも使える。捜査の視野が、メモの文法に縛られる。単数の男。悪い人。追われている。そこに当てはまる人間だけが浮上し、当てはまらない可能性は最初から棚に置かれる。
もちろん、実際には捜査はもっと複雑だったはずだ。だが私たちが後から知る事件の輪郭は、報道によって形作られる。その報道の中心に、メモが置かれた。メモは、人々の想像も縛る。読む者は無意識に単独犯を想定し、単独犯の姿を想像し、単独犯が消えた理由を作り始める。
メモは証拠のはずなのに、証拠としての機能が二重になる。犯人の存在を示すと同時に、犯人の形を決める。そして決めた形が、犯人の不在を強固にする。もし犯人がその形から外れていたら、永遠に見つからない。メモは助けを呼ばず、犯人も呼ばない。ただ、読む者を誘導する。
私が嫌だと思ったのは、メモが持つ静かな権力だ。叫び声は消える。足音も消える。だが文字は残る。文字は残って、未来の判断を固定する。助けて下さいという言葉は、助けを呼ぶための言葉だったはずなのに、誰かを助けるための判断を逆に難しくする。
この構造は、怪談と同じだ。怪談の怪異は、直接人を殺さなくてもいい。人が選ぶ道を、少しずつ狭めればいい。鍵穴の向こうが真相だと信じさせ、他の出口を見えなくする。ここでは怪異の役を担っているのが、紙切れだ。軽いレシートの裏の文字が、捜査と想像の両方を拘束する。
そして最後に残るのは、犯人の姿ではなく、決めた理由だけだ。人は理由に安心を求める。一人だからこうなった。こういう手順だった。こういう人物像だ。だがそれは安心ではなく、逃げ場のない枠になる。枠だけが残って、中身は永遠に埋まらない。その埋まらなさを、助けて下さいという文が支えている。
助けを求める言葉が、助けを遠ざける。その逆転が、この事件を怪談にしている。
第五話:いなかった三人目
事件が未解決のまま時間が過ぎると、人は穴を埋めたくなる。犯人がいない。動機が見えない。なぜ昼なのに助からない。なぜ人がいたのに声が届かない。穴は増える。穴が増えるほど、語りは増える。語りは事実の代わりに、納得を配る。
その中でも、最も有名な語りが三人目の話だ。実はもう一人いた。三人で山に入った。三人目だけが助かった。助かったから秘密にされた。秘密にされたから、数年後に口封じされた。筋は派手で、因果も整っている。人は整った話を好む。整っていれば、怖さが片付くからだ。
だがこの話が広まった背景を考えると、別の恐怖が見える。三人目がいるという噂は、事件の不合理を救済する。二人が同時に襲われるのは不自然だ。なら第三者がいたはずだ。助ける側がいなかったのは辛すぎる。なら助かった誰かがいたはずだ。そう思うことで、私たちは穴を小さくできる。
三人目の物語は、事件を現実から遠ざける装置でもある。陰謀、秘匿、報道協定。そういう言葉が出た瞬間、事件は生活圏から離れていく。遠い闇の物語になる。だが本当の怖さは、遠さではない。近さだ。住宅地の端で、昼に起きたことだ。だからこそ、三人目の噂は便利だった。事件を遠くへ運べる。
噂が便利なとき、それはたいてい不誠実だ。遺族にとっても、地域にとっても、そして読む側にとっても。だが噂を笑って切り捨てるのも違う。噂は人間の防衛反応だ。理解できないものを、理解できる形に折り畳む。くしゃくしゃにしてポケットに入れる。まるで、あのメモみたいに。
私はここで、噂とメモの形が似ていることに気づいた。どちらも、宛先がない。メモは誰にも渡されず、噂は誰の責任でもなく広がる。どちらも、助けを呼ばない。助けを呼ばないものが、人を動かす。人を動かして、事件の外側の生活を変える。山に行かなくなる。竹林を避ける。知らない男を怖がる。だが犯人は見つからない。
三人目がいなかったという事実そのものが、噂より怖い。助かった人がいない。目撃者が決定打を持たない。助けを呼ぶ行為が完結していない。全員が、事件の外側に戻れていない。戻れていないから、噂が生まれる。噂は救いではなく、戻れない人間の影の形だ。
いなかった三人目の話は、いなかったからこそ続く。いなかったことを証明する術がないから続く。未解決事件の怖さは、犯人がどこかにいるという話ではない。答えがないのに、人は答えを作り続けるという事実だ。その作業は終わらない。終わらないまま、季節だけが巡り、竹林だけが風にざわめく。
最終話:読む人
事件の現場は、今も存在する。竹林は手入れされ、道は変わり、宅地は増え、人の流れも変わったはずだ。それでも春から初夏になると、山菜の話が出る。ワラビがどうだ、筍がどうだ。季節が生活を呼び戻す。呼び戻された生活の端に、事件が引っかかる。
私は資料を読む側の人間だ。助けに行けない。止められない。誰かに注意を促すことはできても、あの日の昼に戻れない。だからこそ、読むという行為が奇妙に重くなる。読むだけなのに、関与した気分になる。関与したいのに、関与できない。そのねじれが、怪談の入口になる。
メモは、今でも宛先を持たない。事件当日に誰かに渡されていないからだ。助けて下さいは、助ける人に向けて投げられたはずの言葉なのに、投げられなかった。投げられなかった言葉は、空中に残る。空中に残った言葉は、時間が経つほど不特定多数に降りかかる。
読む者は、その不特定多数の一人になる。私が読んだ。あなたが読む。誰かが動画で読む。記事で読む。朗読で読む。読むたびに、助けて下さいの宛先が、その場の人間に変わる。これは、読む行為そのものを罠にする仕組みだ。
怪談の恐怖は怪異ではなく、関わってしまったことにある。ここで関わるとは、山に入ることではない。読むことだ。知ることだ。読んだ瞬間、紙切れはあなたの中に入る。オワレている。たすけて下さい。この男の人わるい人。宛先がないから、あなたが宛先になる。読んだあなたは、助けるべき相手を知らないまま、助けを求められる。
そしてさらに残酷なのは、助ける手段がないことだ。事件は終わっている。時効も終わっている。犯人が誰であれ、法の手は届かない。助けられない相手から助けを求められ続ける。これ以上の袋小路があるだろうか。
私はふと考える。もしあのメモが、事件当日に書かれていたらどうだった。もし名前が書かれていたら。もし特徴が書かれていたら。もし宛先があったら。もし誰かに渡されていたら。もし渡した相手が受け取っていたら。もし受け取っていた相手が、動けたら。もし。
もしの連鎖は、読む者の中で増殖する。答えがないから、もしが増える。もしが増えるほど、読む行為は事件に寄り添うのではなく、事件に巻き込まれる行為になる。私はそれが嫌で、何度も資料を閉じた。閉じても、文字は残る。ポケットに入れたわけではないのに、頭の中に畳まれて残る。
結局、この連作の最後に残したいのはこれだけだ。あの紙切れは、誰にも渡されなかった。だから、渡される先は未来にしかない。未来の誰かが読むたび、助けを求められる相手が更新される。事件は過去にあるのに、助けて下さいは現在形のまま残る。
竹林がざわめくのは、風のせいだ。そう言える。
だが文字のざわめきは、風では消えない。読む人がいる限り、消えない。
(了)