東北地方に住む吉田さん（仮名）から聞いた話です。
吉田さんが十一歳頃まで父方の実家で暮らしていた時のことだ。そこには父、母、祖父母、それに数年後に生まれた弟もいた。しかし、祖母と母の仲は最悪だったらしい。
祖母は母の出産を快く思わず、生まれたばかりの吉田さんの額に指を当て、力を込めたことが二度ほどあったという。だが、当然ながら時間が経つにつれ和解し、優しい祖母になった……などということはなく、十年間、母は虐待じみた扱いに耐えていた。そしてついに堪忍袋の緒が切れ、父と離婚し、吉田さんと弟を連れて家を出た。
それで祖母とは縁が切れたはずだった。しかし、あの大震災の日、祖父の命日が重なり、九年ぶりに父方の実家を訪れていたのだ。家にいたのは吉田さん、弟、祖母の三人。母と父は仕事で夜に来る予定だった。
昼食を終え、炬燵に入りながら、雑誌を何気なくめくっていた。外では風が静かに吹き、鳥のさえずりが聞こえていた。窓から差し込む陽射しは穏やかで、時間がゆっくりと流れているように感じられた。その時だった。
『バキン！』
轟音とともに家全体が持ち上げられ、叩きつけられたような衝撃。続く激しい縦揺れ。吉田さんは四つん這いで玄関に向かい、高速自動ドアのように開閉する扉を押さえつけながら弟を叫び呼んだ。
爺さんの書庫で官能小説を漁っていた弟が、四つん這いで這い出てきた。
祖母は仏間にいた。吉田さんの頭には祖母のことはなかった。
弟を外へ出し、降ってくる瓦を避けながら庭でうずくまる。ガラス越しに、仏間でうずくまる祖母の姿が見えた。揺れが収まり、近隣住民が安否確認を始める中、吉田さんは祖母を助けに家へ戻った。
祖母は爺さんの位牌と経本を抱え、念仏のような独り言を呟いていた。腕を取って「危ないから出よう」と言うも、祖母は「やんた（嫌だ）」と拒否した。
「家に居ればいい！おらは逃げねえ！」
祖母はこの家に長年暮らし、ここがすべてだった。爺さんとともに積み上げた時間があり、ここを離れることは自分の存在を否定するに等しいのかもしれなかった。家を守ることが己の使命のように思えたのだろう。
家は危険なほど軋み、瓦礫が散乱していた。吉田さんは祖母の肩を掴み、羽交い締めにして縁側から無理やり脱出させた。外では防災無線が鳴り響き、津波が来るかもしれないという話が飛び交っていた。
祖母はなおも騒ぎ、顔を真っ赤にしながら「遺影もってこ！！通帳とタンスの金もだ！」とまくし立てた。目は血走り、震える指先が家の中を指し示している。頑として譲らない。
この家は高台にある。ここまで津波が来るとは思えなかった。ならば写真を取ってくれば祖母も納得するだろう。吉田さんは弟に「先に行け」と言い、再び家へ入った。
仏壇の下から遺影を引っ張り出す。すると祖母が家にまでついてきて「それでねえ！大きいのだ！上のだ！」と梁に掛かった肖像画の遺影を指示する。
「そんなもん無理だ。自分で取れ！」
その時、外で誰かが叫んだ。
「来たぞー！！」
坂の下の海を見下ろすと、砂浜が消え、真っ黒い水が防波堤ギリギリまで満たされていた。
「津波だー！！」
「ばあさん！だめだ！もうダメだ！津波が来た！」
しかし祖母は財布がどうだの写真がどうだのと叫び続ける。問答無用で祖母を裏口へ引っ張った。ちらりと坂の下を見ると、幼馴染の家に流された軽トラが突き刺さっていた。
「ばあさん！弟は！？先に行ったか！？」
「財布とってねえ！おめえ、写真どこさやった！？おい！」
悲鳴が響き渡る中、急斜面の山を四つん這いで登ろうとした瞬間、祖母が吉田さんの足を掴んで引きずり下ろした。
「おらが生かしてやったんだぞ！！おめえを！あん時死ねばよがったんだぞ！早く行け！！」
祖母の顔を見た瞬間、吉田さんは幼少期の記憶が蘇る。猫の残飯を食わされたこと、閉じ込められたこと、母の悪口を読まされたこと——
「あ、うん」
吉田さんは気の抜けた返事をし、腰を捻って祖母の両腕を掴んだ。
そのまま祖母を瓦礫へ向けて突き落とした。
祖母は尻餅をつき、「おい」と普段のように呼びかけた。その顔は、いつもの祖母の顔だった。
吉田さんは四つん這いで山を駆け登った。後ろを振り返ると、波は七メートルほどの地点で止まっていた。
瓦礫の間に祖母の姿はなかった。
それから一年が経ち、祖母は未だ見つかっていない。
家族で死んだのは祖母だけ。親父はすぐに死亡届を出したらしい。それ以降、父方の親族とは関わっていないという。
[出典:http://toro.2ch.net/test/read.cgi/occult/1344337566/]
