黒瀬からその話を聞いたのは、酒の席だった。
酔っていたはずなのに、彼はやけに細部を覚えていた。波の高さ、車内に流れていた曲の順番、トンネルの入口のひび割れまで。
忘れたい話ほど、細かく残るんだと言っていた。
あの夏、黒瀬の家に届いた大量のプール招待券。家族では行きづらいからと、友人に配られた。その中に真下アキヒロもいた。
当日、真下家の父親が運転する車に乗り込んだ時から、黒瀬は妙な役目を与えられていたらしい。
「アキヒロの“お守り”、頼むな」
冗談めかした口調だったが、長男のリュウイチはそれを繰り返した。
お守り。
面倒を見る、とは違う響きだった。
波の出るプールで、二人ははぐれた。波が引き、浅瀬に向かって歩いていたとき、隣にいたはずのアキヒロが沈んでいた。
からかっているのかと思った。だが、引き上げようと掴んだ腕が、異様に重い。
黒瀬は後で言った。
「引っ張ってたの、あいつじゃなかった気がする」
水の中で、どちらが掴んでいたのか分からなくなった、と。
引き上げられたアキヒロの足首には、小さな手の痕があった。
その形が、黒瀬の指の位置とぴたりと重なっていたことを、彼は帰宅してから気づいたらしい。
リュウイチは黒瀬の肩を叩いた。
「ありがとう。帰りまで、よろしく」
その言葉の意味を、黒瀬は考えないようにした。
帰り道、父親が突然言い出した。
「トンネル、寄ってくか」
車は山道へ入った。
その頃には、黒瀬の視界の端に、誰かの肩や髪のようなものが何度も触れていたという。
トンネルの直前、アキヒロが目を覚ました。
「足、まだ掴まれてる」
同時に末弟が泣き出す。
リュウイチはバックミラーを見たまま動かない。
「黒瀬、離すなよ」
何を、と黒瀬は聞かなかった。
トンネルに入った瞬間、車内の音が途切れた。
音楽も、エンジンも、誰の声も。
ただ、黒瀬の右手だけが、強く握り返されていた。
誰の手だったのかは、暗くて分からなかった。
抜けたあと、窓には無数の手形がついていたという。
だが、それが内側からなのか外側からなのか、誰も確かめなかった。
真下家に着くと、母親が塩を持って待っていた。
無言で一人ずつに振りかける。
黒瀬は、目を閉じた。
塩がかかったのは、自分の足元だった気がすると言う。
その夜、アキヒロは金縛りにあった。
「黒瀬、まだいる」
何が、とは言わなかった。
朝になり、父親とリュウイチは妙にすっきりした顔をしていた。
黒瀬はそれ以来、何度か妙なことに巻き込まれている。
心霊スポットに行った覚えはないのに、足首に痣ができる。水辺に立つと、靴の中が濡れている。背後に立つ影の距離が近い。
「お守り、続いてるのかもな」
そう言って笑った。
そのとき、彼の足首にうっすらと浮かんでいた手形は、左右で大きさが違っていた。
一つは、子どものもの。
もう一つは、黒瀬自身の手の幅と、ほとんど同じだった。
彼は気づいていないふりをしていた。
あのとき、水の中で最初に掴んだのが誰だったのか。
そして、今もどちらが掴んでいる側なのか。
酒の席でその話を聞いた夜、帰り道の駅の階段で、私は一瞬よろけた。
足首を、軽く握られた気がしたからだ。
掴まれたのか。
それとも、掴んだのか。
確かめようとして、私は自分の足首を見なかった。
[出典:823 :真下家 ◆txdQ6Z2C6o:2010/07/20(火) 01:24:21 ID:NNu4Laeg0]