中学の同級生、黒瀬という男から酒の席で聞いた話だ。
彼の話には、妙に現実味がある。淡々としていながら、決定的な何かが、いつもどこかで歪んでいる。だから、聞いていると冷房の効いた部屋にいても、ふと背中に汗が伝うような錯覚を覚える。
真下アキヒロ。これがその時の話の中心人物だ。黒瀬と同級で、いわゆる「気の置けない」タイプの友人らしい。冗談を言い合い、悪ふざけもする、いわば中学生らしい付き合いだったという。
あの夏、黒瀬の家には親戚から大量のプール施設の招待券が届いた。温泉もついているらしい。議員とツーカーな親戚が毎年くれる恒例のものだった。黒瀬の妹が思春期を迎え、家族で行くには気まずい年頃だったため、その年は友人たちに配った。
七月も終わる平日、真下家の父親——通称「おじさん」が、息子三人と黒瀬を連れてそのプールへ向かうことになった。おじさんは既に車に乗り込む段階から水着を着込み、松田聖子のカセットを大音量で流していた。妙なテンションのまま、「逆ナンされたらどうしよう」と笑っていたという。
その日、本当に逆ナンされたのは長男のリュウイチだった。美形で、大学生に間違えられても不思議ではない風貌だったが、本人は「俺はダメ長男だから」と言いながら、弟たちの面倒を見ることを全力で拒否した。
結果、末弟の面倒をリュウイチが見ることになり、黒瀬はアキヒロの「お守り」を頼まれた。が、これがどうにも引っかかる。お守り……? 面倒を見る、とは少し意味が違うような、そんな違和感が後に牙を剥くことになる。
事件が起こったのは、波の出るプールだった。
混み合ったプールの中で、黒瀬とアキヒロだけがはぐれてしまった。波の時間が終わり、浅瀬へと歩いていた時、アキヒロがふと消えた。水中を覗くと、すぐ近くに潜っている彼の姿があった。
泳げるはずのアキヒロが、なぜか浮かび上がってこない。からかっているのかと思った黒瀬は、彼の腕を掴んで引き上げようとした。ところが、異様に重い。
何かが、アキヒロを水中に引き留めている。両手で力を込めてようやく引き上げた時、アキヒロは真っ青な顔でむせながら、腹を押さえていた。
彼が言った。
「足、引っ張られてた」
冗談ではなかった。彼の足首には、小さな手の痕がくっきりと残っていたという。水面下で、誰かが、いや、何かがアキヒロの足を掴んで離さなかったらしい。
リュウイチの表情は変わらなかった。黙って、黒瀬の肩を叩いた。
「お守り、ありがとう。帰りまで、よろしくね」
その「お守り」が、単なる監視や面倒見の意味ではないことに、黒瀬はようやく気づいた。
だが、それだけでは終わらない。
帰りの車内。おじさんはハイテンションを維持したまま、唐突にこう言い出した。
「幽霊トンネル、行ってみようぜ!」
反対もむなしく、車は山へと進んだ。すでに真下一家の周囲では、黒瀬にとって“見えないはずのもの”が次々に視界の端に現れ始めていた。
トンネルに入る直前、アキヒロも末弟も目を覚まし、悲鳴に近い声でおじさんを止めた。だが、もう遅かった。車はトンネルの闇に飲まれた。
車内の音楽にノイズが走り、どこからともなくラップ音が鳴り響く。アキヒロは黒瀬の腕を死に物狂いで掴み、念仏を唱え出した。弟はマジ泣き。黒瀬は泣く間もなく、ただ目を閉じて必死に耐えたという。
「リュウイチ、俺の足、また掴まれてる」
「親父、後ろに張りついてるやついる。窓、手形いっぱい」
それでも、彼らはトンネルを抜けた。車にべったりと貼りついたものを引き剥がすようにして山を下りた。
真下家に到着するなり、おばさんが出てきた。そして、言葉もなく塩を一人一人に浴びせた。
おじさんは怒られ、黒瀬はそのまま泊まることになった。
その夜。黒瀬には何も起こらなかった。だがアキヒロは、夜半に何度も唸り声を上げ、金縛りに苦しめられた。ふたりでゲームをして朝を待つしかなかった。
翌朝、唯一すっきりした顔をしていたのは、おじさんとリュウイチだけだった。何が彼らを守っていたのか、それは誰にも分からない。
黒瀬はその日、「もう二度と心霊スポットには行かない」と誓った。
が、こうも彼は言った。
「不思議と、あれからもまたオカルト関係のことに巻き込まれてんだよね。そっちの『お守り』、ずっと続いてるのかもしんない」
その時、彼の足首に目をやると、古びた手形の痕のようなものが、微かに浮かんでいた気がした。
——まだ、誰かが、掴んでいるのかもしれない。
[出典:823 :真下家 ◆txdQ6Z2C6o:2010/07/20(火) 01:24:21 ID:NNu4Laeg0]