帰り道、あの日と同じように湿った風が髪を撫でていた。
週末の夜、終電を逃すほどではないにせよ、遅い時間の帰宅だった。会社の最寄り駅を降りてからの道は、静かすぎて、イヤホンを片耳だけ外して歩く癖がついた。些細な音にも気づけるように。
それは、公園の角を曲がったときだった。
「あなたの部屋に、姿鏡あるでしょ」
低く、硬質な女の声。心臓が一拍遅れて鳴り、わたしはその場に足を止めた。電柱の影から半身を覗かせるように、女がいた。
黒と焦げ茶の服に身を包んだ地味な風貌。年齢は……四十代の中頃か、それ以上にも見えた。
女はわたしを見据え、続けた。
「姿鏡。これくらいの」
手で形を描くようにしている。わたしの腰ほどの大きさ。
「捨てた方がいいわよ。悪いこと、起きるの」
気味が悪かった。酔っ払い? 頭のおかしい人? とにかく関わりたくなかった。
「そんなもの、持ってません。失礼します」
なるべく毅然とした口調で言い、足早にマンションへ向かった。でも、女はついてきた。
「お隣だもの。わたし、知ってるの。お・と・な・り」
女の口調は落ち着いていて、それが余計に不気味だった。
「ねぇ、捨てなさいってば。思い出なの? 形見なら可哀想だけど……しょうがないわよ。明日、捨てなさいね」
マンションの前に着いても、エレベーターに乗っても、女はついてくる。あの呪文のような台詞を繰り返しながら。
「いいかげんにしてください! ほんとうに、そんな鏡ありません!」
怒鳴りつけると、女は薄く笑いながら言った。
「嘘。教育が悪いのね。隠しても無駄。だって知ってるもの。姿鏡、あるでしょ?」
七階に着くと、わたしは逃げるようにして自室へ駆け込んだ。エレベーターの扉が閉まる間際、女が大声で叫んでいた。
「姿鏡を捨てなさい! 思い出なの?」
翌朝、眠れなかった頭を引きずり会社に行った。顔色の悪さを「二日酔いか」なんてからかわれながら、頭の中は昨夜のことでいっぱいだった。帰るのが怖かった。でも帰るしかない。
そして、またいた。昨日と同じ場所、同じ女。
「姿鏡、あるでしょ。このくらいの」
やはり、延々と続く。無視を決め込んでいたが、部屋の前までついてきて、ついにわたしは怒鳴った。
「もうやめてください! 警察、呼びますよ!」
女は聞こえていないふりをしたまま、妙なことを言い出した。
「鏡っていうのはね、光だけじゃなくて、悪い気も跳ね返すのよ」
「……は?」
「悪い気がね、あなたの部屋を通ってくるの。姿鏡がそれを反射して、わたしの部屋に入ってくるの。だから……マァ君が事故に遭ったの」
マァ君? 誰?
「今、入院してるの。このままだと、死んじゃう。だから鏡、捨てて。お願い」
もう、無理だった。勢いよく部屋に入って鍵をかける。外からはまだ聞こえてくる。
「思い出なの? しょうがないのよ」
すぐさま管理人に電話した。
「隣人に付きまとわれてるんです! ちょっと頭のおかしい人で……」
電話越しの管理人は、どこか面倒くさそうな声だった。
「う~ん、その……お宅の隣の七〇七号室なんですがねぇ」
言葉を濁す管理人に苛立ちが募った。
「はやく何とかしてください! チャイムも鳴ってるんです!」
たしかに、ピンポン、ピンポンと鳴っている。だがその音に重なるように、別の声がした。
「ピンポーン! すいませーん!」
男の声だった。
「実は……七〇七号室には誰も住んでないんです。あそこ、携帯の基地局で、機材があるだけで……」
管理人の言葉が終わると同時に、玄関の外の男がこう叫んだ。
「さっき口論してた人! 飛び降りちゃいましたけど!」
視界がぐにゃりと揺れた。壁にもたれかかった瞬間、意識が途切れた。
気がついたときには救急隊が来ていた。エントランス前に、ブルーシートが敷かれていた。
姿鏡?
ああ、あった。捨てたなんて嘘だった。元彼がくれた、大きな鏡。別れたあともずっと手放せなかった。
でも、もう……ない。
翌週、管理人が確認したところ、七〇七号室に通じる非常階段には、泥のついた足跡があったという。
上へ向かう足跡はあるのに、戻る足跡は、なかった。
(了)
[出典:2008/08/09(土)18:45:06ID:CiRpxVeD0]