東京・品川に古びたビジネスホテルがある。
昭和四十二年十月十六日の夜明け、その二階奥にある二〇八号室を掃除に入った従業員が、女のぶら下がる姿を見たのだという。白い浴衣の帯が鴨居から垂れ、首を吊ったまま揺れていたのは室蘭から来た平山房子、三十六歳。机の上には震える文字で書かれた遺書が二通残されていた。
形式だけ見れば典型的な自殺。ホテルの者たちは騒ぎながらも「人は見かけによらぬ」と囁いた。だが、捜査に入った警視庁の刑事たちはその場の空気に違和を嗅ぎ取った。
金を持ち逃げした女にしては、財布に残っていたのはわずか十四万円。下着を穿かず、布団の上に投げ出したまま。死に臨む身の潔癖さがどこにも感じられぬ。さらには、灰皿にもコップにも彼女自身の指紋が一つもなかった。
そこで現場を見回した平塚八兵衛刑事が唸った。あの、落としの八兵衛と異名を取った男だ。
「これは吊ったんじゃねえ。吊らされたんだ」
調べを進めるうちに、ホテルのフロント係の証言が浮かび上がる。死の前日、彼女のもとを訪ねた若い女がいた。「妹」と名乗ったその女は、その日を境に忽然と姿を消した。
室蘭から呼び寄せた情報では、その女はバーホステスの伊藤和子、二十二歳。すぐに逮捕された。だが、伊藤は単なる操り人形に過ぎなかった。背後には和泉英雄という男がいた。三十二歳、バーを営む色男で、同時に平山と通じていた。
和泉の影を辿ると、事件の輪郭が奇妙な速さで浮き上がる。
「金を出せば結婚してやる」と、ある美容室経営の女に囁かれ、和泉は焦っていた。その欲に駆られ、経理課に勤める平山を焚きつけ、有価証券千二百万円を横領させる。そして安全のために伊藤を妹役として添わせた。姉妹を装って逃亡する計画。だが、最後に待っていたのは、互いの喉を絞める罠だった。
ホテルの二〇八号室。
平山に遺書を書かせると、睡眠薬を飲ませ、左右から浴衣の帯を引いた。息絶えた体を吊り上げ、まるで自ら命を絶ったように見せかける。だが、完全犯罪を夢見た二人の手は、机の隅に注射器を置き忘れ、隣室の指紋を拭き落とすこともなかった。
平塚刑事はそこから匂いを嗅ぎ取り、すぐに和泉を割り出した。
和泉は青函連絡船に偽の遺書を残し、各地を逃げ回った。まるで自分の影に追われるように。やがて大阪・西成の安アパートで捕まり、伊藤の口から真相が流れ出る。
後に裁判で、和泉と伊藤には無期懲役が下された。死刑は免れた。だが人々の記憶には、ぶら下がる女と、消えた妹、そして「自殺に見せかけた絞め殺し」という不気味な語が残った。
――いまでも品川のその一角を歩くと、窓の奥に白い浴衣の裾が揺れて見える、と語る者がある。風ではなく、人影のように、静かに左右へと……。
(了)