ある青年が、仕事の都合でK県を訪れた際の出来事。
旅の疲れを癒やそうと、人気の少ない路地を歩いていると、一軒の古びたとんかつ屋が目に入った。外観は何の変哲もないが、どこか誘われるような雰囲気があった。木製の看板には「とんかつ」とだけ書かれ、店の窓からは薄暗い灯りが漏れている。暖簾をくぐると、カランと鈴が鳴った。
店内は狭く、四人掛けのテーブルが二つとカウンター席がいくつか並んでいるだけ。奥の座敷は生活感が滲み出ていて、テレビの音が微かに聞こえる。子供らしき人影がちらりと見えた。厨房では無愛想な中年の夫婦が動き回っている。どちらも肌が青白く、疲れた表情をしていたが、それを気にする間もなく、青年は空腹に耐えかねて注文を済ませた。
運ばれてきたとんかつは、驚くほど香ばしい匂いを放っていた。一口頬張ると、カリッとした衣の中からジューシーな肉汁があふれ出し、思わず息を呑むほどの美味さだった。
見た目に反して軽やかな食感で、気づけば皿は空っぽになっていた。満足感に浸りながら会計を済ませ、店を出ようとした瞬間、店主がぽつりと呟いた。
「来年も、またどうぞ。」
どこか不思議な響きのある挨拶だったが、青年は深く考えなかった。その味が忘れられず、彼は翌年も同じ店を訪れることを決めていた。
――一年後。
再びK県を訪れた青年は、あのとんかつ屋を探し始めた。しかし、どういうわけか見つからない。住所は間違っていない。周囲の風景も変わっていない。それでも、そこにあるはずの店が影も形もないのだ。不審に思い、近くの住民に尋ねることにした。
「この辺りにあった古いとんかつ屋を知りませんか?」
しばらく考え込んでいた老人が答えた。
「ああ、あの店か。だがな、あそこは十一年前に火事で全焼してしまったんだ。家族三人が犠牲になってね、もう跡形もないよ。」
耳を疑った。昨年、確かにあの店でとんかつを食べた。香ばしい匂い、肉の柔らかさ、子供のいる風景まで、記憶は鮮明だ。しかし、老人の言葉は続く。
「ただ、不思議な話があってな。毎年その火事の日だけ、その店が現れるっていう噂があるんだ。で、その日には必ず客が一人入る。もしかして……去年お前さんがその客だったんじゃないか?」
青年は、愕然とした。火事の日。そういえば、昨年訪れた日付を覚えている。そして、その日が家族の命日であることを老人から聞かされた。震える手で額を押さえながら、あの時の店主の言葉が蘇る。
「来年も、またどうぞ。」
あの挨拶は、来年の命日に再び来いという意味だったのか。頭が真っ白になった青年は、恐る恐る友人にその話をした。友人は苦笑しながら言った。
「そんな馬鹿な話があるか。お前、本当にとんかつ食ったのか?」
青年は力強く頷いた。
「ああ、間違いない。あれほど美味いとんかつは食べたことがない。それに、奥で子供がテレビを見てたんだ。曲まで覚えてる。ルパン三世のテーマだった。」
だがその直後、急に表情が曇り、呟いた。
「……そういえば、子供の首が、なかった気がする。」
(了)