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八甲田山雪中行軍遭難事件【ゆっくり朗読】20.1k-0106

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八甲田雪中行軍遭難事件(はっこうだせっちゅうこうぐんそうなんじけん)は、1902年(明治35年)1月に日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が青森市街から八甲田山の田代新湯に向かう雪中行軍の途中で遭難した事件。

訓練への参加者210名中199名が死亡(うち6名は救出後死亡)するという日本の冬季軍事訓練における最も多くの死傷者が発生した事故であるとともに近代の登山史における世界最大級の山岳遭難事故である。

雪中行軍

日本陸軍は1894年(明治27年)の日清戦争で冬季寒冷地での戦いに苦戦した。そしてさらなる厳寒地での戦いとなる対ロシア戦を想定し、準備していた。

日本陸軍にとって冬季訓練は緊急の課題であった。対ロシア戦は2年後の1904年(明治37年)に日露戦争として現実のものとなった。
雪中行軍には青森から歩兵第5連隊210名が、弘前から歩兵第31連隊38名が参加した。うち青森歩兵第5連隊が遭難した。

行軍の目的

青森歩兵第5連隊はロシア軍の侵攻で青森の海岸沿いの列車が動かなくなった際に、冬場に「青森~田代~三本木~八戸」のルートで、ソリを用いての物資の輸送が可能かどうかを調査する事が主な目的であった。

弘前歩兵第31連隊は「雪中行軍に関する服装、行軍方法等」の全般に亘る研究の最終段階に当たるもので、3年がかりで実行してきた雪中行軍の最終決算であった。

「弘前~十和田湖~三本木~田代~青森~浪岡~弘前」のルートで11泊12日の行程であった(総距離224キロメートル)。
なお、両連隊は、日程を始め、お互いの雪中行軍の実行計画すら知らなかった。

小説や映画での行軍競争などは創作である。

行軍の準備

弘前第31連隊が行軍命令を通知したのは1901年(明治34年)12月20日頃で、出発の1月前だった。隊は志願者37名の少数精鋭(従軍記者1名)で編成され、また行軍途中の村落や町役場に事前に手紙で食料・寝具・案内人の調達を依頼した。

また弘前隊はきこり、マタギ、農家から冬山では汗をかかないように工夫することや、足の指を油紙で巻き、唐辛子をまぶし、靴下を3枚履くことなどを情報収集していた。また、行軍中は麻縄で隊員同士を1列に結んだ。

青森第5連隊は1902年(明治35年)1月18日に予行演習を行った。天候がよく、この体験のために天候急変に対応できなかったともいわれる。

翌日の1月19日に行軍の実施命令が発布されるが、これは出発の4日前であった。青森隊は210名の大編成で、3日分の食料(米、缶詰、漬け物)、燃料(薪)、缶詰、鍋と釜をソリ14台で引く計画であった。ソリの重量は1台約80キロで最低4人で引くことになるが、横滑りなどのため、さらに人員が必要になった。

遭難部隊・青森歩兵第5連隊

遭難した歩兵第5連隊は青森を衛戍地としていた。

部隊の指揮を執っていたのは、第2大隊中隊長で陸軍歩兵大尉の神成文吉(かんなりぶんきち)であった。

神成大尉は秋田県出身で、陸軍士官学校ではなく陸軍教導団を経て陸軍歩兵二等軍曹に任官し、順次昇進して陸軍歩兵大尉となった人物で、平民の出身である。

5連隊の雪中行軍は、第2大隊を中心に第5中隊長の神成大尉の隊を中心に行軍隊が編成されたが、第1大隊や第3大隊からも長期伍長が一部選抜された。

また、大隊長で陸軍歩兵少佐の山口鋠が随行した。山口少佐は遭難行軍の途中から指揮権を握ったという証言もあるが中隊には大隊本部が随行するのは通常でもあり、神成大尉の上官である山口鋠が最終的な責任者だった。

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遭難経緯

第1日(1月23日)冬の八甲田山

午前6時55分に歩兵第5連隊は青森連隊駐屯地を出発。

田茂木野において地元村民が行軍の中止を進言し、もしどうしても行くならと案内役を買ってでるが、これを断り地図とコンパスのみで厳寒期の八甲田山踏破を行うことになった。

天候悪化

途中小峠までは障害もなく進軍できたが、ソリ隊が遅れはじめたため昼食を取るとともに大休止となった。

この時、天候が急変し、暴風雪の兆しがあったことから、永井軍医の進言により、将校の間で進むか退くかの協議を行った。

装備の不安と天候がさらに悪化することを恐れ、将校らは駐屯地へ帰営することを決定したが、見習士官や長期伍長など下士官を中心とする兵たちの反対と、田茂木野村で案内人を断って進軍したことなどにより行軍を続行する。

悪化する天候と強風・深雪などの困難を極めながらもようやく馬立場(大峠より6km)まで進軍した。

ここから鳴沢に向け、積雪量が格段に深くなったため、行軍速度が落ち食料と燃料などを積んだソリ部隊は本隊より2時間以上遅れることとなった。

神成大尉は第2、第3小隊計88名をソリ隊の応援に向かわせると同時に、設営隊15名を田代方面に斥候を兼ねた先遣隊として先行させた。

夕方5時頃、馬立場から鳴沢へ向かう途中でソリの放棄を決定した。ソリの荷物については、各輸送隊員が分散して持つこととなった。

このとき炊飯用の銅釜を持たされた兵士が一番悲惨だったという。先遣隊として先行していた設営隊も進路を発見できず、道に迷っていたところを偶然にも本隊と合流した。

見習士官を先導とする第2の斥候部隊を派遣したが、日没と猛吹雪により前後不覚となり田代方面への進路も発見できなくなったため、やむなく部隊は露営場所を探すことになった。

夜9時過ぎに田代まであと1.5kmの平沢の森まで進出したところが最初の露営地となった。夜中に2mの雪壕を掘った(弘前隊は4m)。

第2日(1月24日)帰営決定

午前1時頃、遅れて到着した輸送隊により半熟米が支給される。

午前5時出発の予定だったが、多くの将兵が寒気を訴え凍傷者が続出する恐れが出たため、午前2時頃事態を重くみた山口少佐ら将校たちは協議の結果、行軍の目標は達成されたと判断し部隊の帰営を決定する。

遭難

部隊は馬立場を目指すが午前3時半ごろに鳴沢付近でゴルジュに迷い込んでしまう。

やむなく前露営地へ引き返すこととなったが、この時佐藤特務曹長が田代への道を知っているとの言を山口少佐が聞き、独断で「然らば案内せよ」と命じた。

しかし佐藤特務曹長は道を誤り、結局澤への道を下ったところは駒込川の本流であった。その頃は全員疲労困憊しており、隊列も整わず統制に支障が出始めた。

山口少佐は、駒込川に至ったことで佐藤特務曹長の進言が誤りだったことに気付くが、もと来た道は吹雪により完全に消されており部隊は完全に前後不覚の状態になり遭難となった。

崖登り

仕方なく部隊は崖をよじ登ることになる。ここで崖を登れず落伍する兵がでてしまう。

この行軍における最初の犠牲者であるが、猛吹雪で誰も確認ができなかった。

駒込川の沢を脱出する際、第4小隊の水野忠宜中尉(華族、紀伊新宮藩藩主水野忠幹の長男)が卒倒凍死し、部隊の士気が下がった。

第2露営地

結局、前露営地よりたった数百メートル進んだだけで、夕方頃に鳴沢付近にて凹地を発見しここを露営地とした。

部隊は統制が取れない上、雪濠を掘ろうにも道具を所持していた隊員は全員落伍して行方不明となっており、文字通り吹曝しの露天に露営する状態となる。

猛吹雪と気温低下で体感温度が-50℃近く、前日よりほとんど不眠不休で絶食状態であるため、ここで多くの将兵が昏倒し凍死していった。

この遭難で最も多くの犠牲者が発見された場所である。

青森屯営

一方、青森では帰営予定日時になっても帰営しない行軍隊を迎えに行くため、川和田少尉以下40名が田茂木野まで出迎えに行った。

しかし24時まで待ったが消息がなかった。この日は弘前連隊へ転出する松木中尉の送別会を催していたが、出席者は「この場で行軍隊が戻ってきたらうれしい話だな」などと悠長に話し合っていた。

第3日(1月25日)

この日も夜明けを待って出発の予定であったが、凍死者が続出したため、やむなく午前3時頃、部隊は馬立場方面を目指して出発した。

この時点で死者、行方不明者合わせて70名を超えていた。その他の兵士も多くは凍傷にかかっていた。コンパスは凍りついて用を成さず、地図を頼りに、ほぼ勘に頼っての行軍となっていた。

彷徨

鳴沢の辺りまで一度は辿り着くも、風が強く断崖に達したため進行が不可能になり引き返す。その後再度反対方向に進行するも、前方を山に遮られ道を失った。

のちの証言によれば、大隊本部の将校、神成大尉らが協議のうえ「ここで部隊を解散する。各兵は自ら進路を見出して青森又は田代へ進行するように」と命令したとされる(後藤伍長の談)。

新田次郎の小説やドラマで有名な台詞の元となる「天は我らを見捨てたらしい」というような言葉をこの場所で神成大尉が吐いたといわれる(小原伍長の談)。

このため、それまで何とか落伍せずに頑張っていた多くの兵士が、この一言により箍が外れ、着ていた服を脱ぎ始め裸になる者、「この崖を降りれば青森だ!」と叫び川に飛び込む者、「筏を作って川下りをして帰るぞ」と叫び樹に向かって銃剣で切りつける者など発狂者が出てくるほか、凍傷で手が効かず袴のボタンを外せぬまま放尿しそこからの凍結が原因で凍死する者など死者が続出した。

ただし、実質的に部隊の統制がとれなくなっていたことはともかく、この時同行していた生存者である伊藤中尉は晩年に至っても「部隊が途中で解散した」と巷で定説のように扱われている話を否定し続けた。

この彷徨で興津大尉以下約30名が凍死。昨晩の夕方から興津大尉は凍傷にかかっており櫻井看護長らが手当てしていた。2月12日の発見時には従卒の軽石三蔵二等卒は興津大尉を覆うように倒れていた。

さらに後に生存者として発見される兵士を含む十数名が行方不明となる。長谷川特務曹長は滑落し道に迷い、彼に従った数名は午後2時頃平沢の炭小屋を発見しそこに滞在した。

マッチで火を起し暖を取ったが全員疲労が激しく睡魔に襲われ、焚火の番をするのが困難だったため、翌1月26日午前3時頃に火事になる可能性を恐れ炭火を消し、その後は暖を取ることは無かった。

本隊が露営地(第2露営地)に戻った頃に山口少佐が人事不省となり、倉石大尉は少佐に遺言を求めた。後藤伍長は少佐がこの時死んだものと判断したようである。

斥候隊

午前7時頃、多少天気が回復した際に大隊本部所属の倉石大尉は斥候隊を募り、比較的元気な12名が二手に分かれて馬立場方面への斥候へ向かった。

部隊は平静を取り戻したがそれも長くは続かず、午前10時頃には木が揺れるのを見た1人の兵士が「救助隊が来た!」と叫ぶと、他の者も「本当に来た!」「母ちゃ~ん!」と叫び始めた。

倉石大尉は、その状況になる度に春日林太夫喇叭卒に喇叭を吹かせて冷静さを取り戻したという。春日喇叭卒は喇叭が凍結していたため、唇がはがれ翌日凍死した。

高橋班に属する佐々木霜吉一等卒が帰路を発見した。午前11時30分頃高橋斥候長が自ら戻ってきて、帰路を発見し田茂木野方面へ進軍中との報告をした。

本隊は戻ってきた斥候隊に付いて行き、馬立場に到着した。ここでもう片方の渡辺幸之助軍曹らの合流を待つが、彼らはついに戻らなかった。

また、馬立場付近で帰路を発見した佐々木一等卒と高橋伍長は、その後重なり合うようにして凍死しているのを発見された。

夕方5時頃倉石大尉が気づいた時には大橋中尉、永井軍医が隊列から遅れ行方不明となっていた。永井軍医や桜井龍造看護長といった医療班は、兵の看護を無理をして続けていたが、その結果本人達もたおれてしまう結果となった。この頃には完全に部隊はばらばらになっていた。

合流、第3露営

夜12時頃に、倉石大尉の一隊は神成大尉の一行と合流した。

この日は馬立場北方の中の森にて露営することとなった。この日の露営は寒さに堪えかねて、凍死した将兵の背嚢を燃やすなどして寒さを凌ぐものの多数の兵士が凍死した。

青森屯営

青森では天候が前日よりも良かったので今日こそは帰ってくるだろうと、古閑中尉以下40名は炊飯具を携行して幸畑で粥を作って待っていた。

その一部は田茂木野村の南端でかがり火を作って夜まで待った。しかし夜中になっても到着しないことから、屯営では行軍隊が三本木方面に抜けているのではと考え、三本木警察に電報を出したが確認がとれず、翌日から救援隊を派遣することを決定した。

第4日(1月26日)

部隊は出発の合図もなく、明け方頃に出発したようである。

この時点で生存している将兵は60から70名となっていた。部隊の人数は1/3以下に減っていた。

前日の露営で山口少佐が再び人事不省となり、少佐は兵卒に担がれる状態で行軍する。隊列は乱れに乱れ、先頭は神成大尉、倉石大尉と自然に決まっていたが、それ以外は所属も階級も関係なく、将兵が後から続く形となっていた。

神成大尉らは前方高地を偵察する形で前方を行き、倉石大尉は後方を進んでいた。

後藤伍長は立ったまま昏睡してしまい、目覚めたときには付近に部隊は誰もいなかった。

1人で青森に向かう途中、神成大尉、鈴木少尉らと出会う。夕方までに、中の森~賽の河原の間(所在不明)に到着。

生き残った部隊約30名は談合し、隊は二手に別れて行動する事になった。田茂木野を目指す神成大尉一行数名と、駒込澤沿いに進行し青森を目指す倉石大尉(山口少佐含む)一行約20名に分かれる。

救援隊による捜索

この日、村上一等軍医、三神少尉、下士卒60名の救援隊は屯営を出発した。

途中村民を案内人として雇い大峠まで捜索活動を行ったが、案内人の調達に手間取り田茂木野出発が遅れたこと、及びこの日の気温は-14℃であり、風雪も厳しく、案内人及び軍医の進言により捜索を断念して田茂木野へ引き返した。

第5日(1月27日)

倉石大尉のグループは駒込川方面を進むが、途中青岩付近で懸崖にはまってしまい、進むことも戻ることもできなくなった。

神成大尉のグループは、道自体は比較的正確に進んでいたが、倉石大尉らと異なり猛吹雪をまともに受けたため落伍者が続出した。

残り4人の中から鈴木少尉が高地を見に行くと言い、出発したがそのまま帰ってこなかった。3人となりしばらく留まるなかで、及川篤三郎が危篤となったが手当てをすることもできずそのまま死亡した。

やむを得ず神成大尉と後藤伍長の2人は雪中を進むが、今度は神成大尉が倒れた。1月27日早朝、神成大尉は後藤伍長に「田茂木野に行って住民を雇い、連隊への連絡を依頼せよ」と命令した。

後藤伍長は命を受けて1人で朦朧とした意識の中で危急を知らせるために田茂木野へ向けて歩いた。

救援隊による捜索と後藤伍長発見

救援隊は捜索活動を再開した。田代まで進軍し雪中行軍隊と接触しようと、尻込みする案内人を説得して行進した。

午前10時半頃、三神少尉率いる小隊が大滝平付近で雪中に仮死状態で歩哨の如く直立して立つ後藤房之助伍長を発見した。

本人はこの時のことを「其距離等も詳かに知る能はず、所謂夢中に前進中救援隊のために救われたり」と述べている。

発見時の様子を東奥日報は「直立せしまま身動きもせずキョロキョロせしのみ」と報じる。ここで雪中行軍隊が遭難したことが判明した。

神成大尉らの遺体発見

意識を取り戻した伍長が「神成大尉」と微かに語ったため、付近を捜索すると約100メートル先に神成大尉が倒れていた。

大尉は全身凍っていたうえ、帽子も手袋も着けておらず雪に首まで埋まっていた。軍医は腕に気付け薬を注射しようとしたが、皮膚まで凍っていたため針が折れた。

その後口を開けさせ口腔内に針を刺した。何か語ったように見えたが、蘇生せずそのまま凍死した。

すぐ近くで及川篤三郎の遺体も発見された。2人の遺体は運ぶことが出来ず、目印をつけてその場に置いたまま、後藤伍長のみ救出して田茂木野へたどりついた。

本部への報告

19時40分、三神少尉が連隊長官舎に駆け込み大滝平で後藤伍長を発見したことと雪中行軍が「全滅の模様」であること、2時間の捜索で「救助隊60余名中、約半数が凍傷で行動不可かつ1名が重度の凍傷で卒倒」となったことを知らせた。

行軍隊が田代に到達したものと信じていた青森歩兵第五連隊長の津川謙光中佐は、この報告を聞いて青くなった。

1月27日の夜、倉石大尉らの一隊では今泉三太郎見習士官が下士1名を伴い、連隊に報告すると告げ、大尉が制止するのも聞かず裸になって川に飛び込んだ。倉石大尉は「川を下っていった」と述べているが、他の生存者の証言から川に飛び込んだのは間違いなく、3月9日に下流で遺体となって発見された。

第6日(1月28日)

1月28日には倉石大尉らの一隊では、錯乱した佐藤特務曹長が下士兵卒を連れ川に飛び込んだが、岩に引っ掛かりそのまま凍死した。

これに関しても倉石大尉は「連隊に連絡しようとして川に飛び込んだ」と述べている。倉石大尉ら数名は崖穴に入った。

山口少佐がいる川岸の場所と、倉石大尉らのいる場所の二つに別れて兵士がいたが、どちらかといえば倉石大尉らのいる所の方が場所的には良かった。

倉石大尉は山口少佐にこちらに来るよう勧めたが、山口少佐は「吾は此処に死せん」として拒否した。この頃、山口少佐に水を与える役目になったのは、比較的動けた山本徳次郎であった。

第7日(1月29日)

1月29日に救助部隊が神成大尉及び及川伍長の遺体を収容し、各哨所も完成する。同様に八甲田山を逆方向から雪中行軍をしていた弘前隊が青森に到着した。

第8日(1月30日)

1月30日には賽の河原で中野中尉ら36名の遺体を発見した。この場所は倉石大尉らが駒込川の沢に降りていった道に当たる。「賽の河原」の名前は、以前にもここで凍死した村の人が多くいたために付けられていたといわれる。後藤惣介が倉石大尉らの場所に行く。

第9日(1月31日)

1月31日午前9時頃、鳴沢北方の炭焼き小屋にいた三浦武雄伍長と阿部卯吉一等卒の2人が救出されるが三浦伍長は救出後に死亡した(死亡したのは3月中旬)。

小屋で朝まで生きていたというもう1人の遺体も発見した。

3日目に出発したところまでは覚えているが、それ以降は分からず、気づいたら小屋に飛び込んでいたという内容の証言をしている。

小屋周辺では16名の遺体を発見した。この際田村少佐は陸軍省に「生存者12名」と誤電報を送るがすぐさま「生存兵卒2、遺体10」だったと訂正している。

後日、某兵士が語ったところによれば、救援隊到着がもう一日早ければ、もっと多くの将兵が助かっていただろうとの感想を述べている。

倉石大尉らの発見

午前9時頃、倉石大尉らが崖をよじ登りだす。

15時頃、250メートルほど進んだところで倉石大尉、伊藤中尉ら4人が救援隊に発見され、生存者計9人が救助された。

だが、高橋房治伍長、紺野市次郎二等卒は救出後死亡した。この際に救出された山口少佐も病院に収容されたが2月2日に死亡した。

鳴沢では他に水野忠宜中尉以下33名の遺体を発見し、大滝平付近で鈴木少尉の遺体を発見している。

第10日(2月1日)

2月1日には賽の河原付近にて数名の、按ノ木森から中ノ森にかけ十数名の遺体を発見した。

第11日(2月2日)

2月2日捜索隊に加わっていた人夫が、平澤付近で飛び出してきた兎を追いかけていたときに偶然に炭小屋を発見した。

何だか人の声がするようなので小屋をのぞいてみると、長谷川特務曹長、阿部寿松一等卒、佐々木正教二等卒、小野寺佐平二等卒の4人の生存者が発見される。

しかし、佐々木二等卒、小野寺二等卒は救出後死亡した。

最初、この炭小屋には8名の生存者がいたが、比較的元気な3名は屯営を目指して小屋を出たが全員凍死し、永野軍医は助けを求める付近の兵卒を手当てするため小屋を出てそのまま戻らなかったという。

15時頃には、最後の生存者となる村松伍長が古館要吉一等卒の遺体と共に田代元湯近くの小屋で発見された。

村松伍長は四肢切断の上、一時危篤状態となったがかろうじて回復した。

元湯近くの小屋に到達してからの最初の数日間は、近くの温泉の湯を飲みながら命をつないでいたという。

生存者

最終的に生存したのは、倉石一大尉(山形)
伊藤格明中尉(山形)
長谷川貞三特務曹長(秋田)
後藤房之助伍長(宮城)
小原忠三郎伍長(岩手)
及川平助伍長(岩手)
村松文哉伍長(宮城)
阿部卯吉一等卒(岩手)
後藤惣助一等卒(岩手)
山本徳次郎一等卒(青森)
阿部寿松一等卒(岩手)の11人のみであった。

このほか山口少佐以下6名(三浦武雄伍長、高橋房治伍長、紺野市次郎二等卒、佐々木二等卒、小野寺二等卒)が救助されたが、治療の甲斐なく死亡した。

生存した将兵も、倉石大尉、伊藤中尉、長谷川特務曹長以外、その全員が凍傷により足や手の切断を余儀なくされた。

軽症な方では、及川はアキレス腱と指3本、山本は左足を切断した。その他は四肢切断(一部は両下肢と手指部のみ)であった。また、一番元気だった倉石大尉は日露戦争の黒溝台会戦で1905年1月27日に戦死した。伊藤中尉、長谷川特務曹長も重傷を負った。

遭難の詳細は生存者の証言がそれぞれ異なること、また軍部の圧力又は情報操作により、戦争に向けて民間人の軍部への批判をかわすことを目的に、真実が隠されたり、歪曲された節がある。

山口鋠少佐の死因

2月2日に死亡した山口鋠少佐(大隊長)の死因は公式発表では心臓麻痺となっている。

山口少佐は元々心臓が弱かったとの証言もある。しかし、遭難についての一切の責任を負わせるために軍部が暗殺したとする説や、ピストル自殺説(小笠原孤酒及び彼に取材した新田次郎が採っている)もある。

最近では「凍傷の指で銃の操作は不可能」として新たな背景を探る松木明知の研究(死因はクロロホルムによるショック死)もある。

山口(旧姓成澤、養子のため改姓)鋠は安政3年に幕臣の子として生まれ、義兄の英学者の渡部温が沼津兵学校教授を務めていたため、幼時を沼津で過ごす(年少のため入学はせず)。東京外国語学校でフランス語を専攻し、陸軍士官学校から陸軍戸山学校に進む。日清戦争に従軍した後、青森の前任地は山形(歩兵第32聯隊)だった。

山口の最期を看取った軍医は山形衛戍病院からの応援者、中原貞衛である。担当の中原軍医が数年後に変死したことなどもあって、陸軍上層部による暗殺説もあるが、弘前大学医学部麻酔科の松木明知教授が、陸上自衛隊三宿駐屯地内にある彰古館(医療史博物館)が所蔵する『陸軍軍医学会雑誌』の「明治三十五年凍傷患者治療景況」に記載された山口少佐の死亡状況を医学的に分析したところ、クロロホルム麻酔による心臓麻痺の可能性が高いと指摘した。

山口少佐の生存が確認されたのは1月31日の夕刻であり、それまでは後藤伍長の言により死亡と思われていた。

崖下からの引上げに手間取ったため、最終的に救助されたのは夜中で、応急処置の後、青森衛戍病院に入院したのは2月1日の夜である。入院時の記録では「膝下、肘下は重度の凍傷で手指は水膨れて膨張す」とある。

この記録によって、まず拳銃自殺は否定される。

少佐が死亡したのは2月2日午後8時半であるが、入院後わずか1日で死亡している。当時、東京-青森間は、直通列車で23時間を要し、電話も敷設されていなかったため、急を要する通信手段は電報に限られていた。

遭難発生後の当時のその電報記録についても、その発信日時まで詳細に残っているが、その中には陸軍上層部(陸軍大臣及び第八師団長)による謀殺を匂わすような文言は一切ない。
よって、松木が主張するような「軍上層部による山口少佐謀殺説」は、それを裏付ける証拠もなく、以上のような時間的制約(すなわち、救出後わずか1日程度で陸軍大臣が師団長を通して連隊長に暗殺を命じることは時間的に不可能)もあり、謀殺の事実はほぼあり得ないと考えられる。

松木の主張通りクロロホルム(クロロホルムは現在劇薬として取り扱われている)が死因だとすれば、治療ミスの可能性もあるが、救出後死亡した者の中には心臓麻痺が原因の者もおり、少佐の死因に特段の作為はないと考えられる。

川口泰英らはむしろ、死亡したことを利用して遭難の責任を山口少佐に押し付けたというのが真相であろうとしている。

救助活動

救助活動は青森連隊、弘前連隊、更には仙台第5砲兵隊も出動した大掛かりな体制になり、延べ1万人が投入された。その後、生存者の収容の完了と捜索方法の確立と共に青森連隊独自で行った。

救助拠点は、幸畑に資材集散基地、田茂木野に捜索本部を置き、そこから哨戒所と呼ばれるベースキャンプを構築、前進させる方法が取られた。哨戒所は大滝平から最初の遭難地点の鳴沢まで合計15箇所設営予定であったが、実際にはいくつかが合併され、11箇所の設置にとどまった。

捜索方法

捜索は、生存者の証言と行軍計画を参照して行軍ルートを割出し、そのルートを重点として、横幅30m(およそ30人一列)になって、其々が所持する長さ10m程の竹棒を雪中に突き刺しながら前進し、少しでも違和感がある手応えを感知するとその下を掘削する方法が採られた。

この作業は構築した哨戒所を拠点として、日中を6時間程かけて行い、遺体は哨戒所に一旦収容してから、捜索本部に集積した。

1ヵ月も経過すると、捜索隊員によって雪が踏み固められたり、気温の変化で雪がシャーベット状になり、かなり固くなってしまった。そのため、竹棒では刺さらなくなり鉄棒で代用した。

また、捜索活動初期の頃、北海道から辨開凧次郎らアイヌ人一行を招き、および彼等が所有する猟犬(北海道犬)と共に捜索活動を行い、遺体発見でかなりの成果を挙げた。

遺体収容

発見された遺体は、1体に数人程度をかけて掘り出して哨戒所に運搬した。余りに凍りついていたため、粗略に扱うと遺体が関節の部分から粉々に砕けるからであった。

哨戒所にて衣服を剥いだ後、鉄板に載せられ直火にて遺体を解凍し、新しい軍服を着せてから棺に収容して本部まで運搬した。

水中に没した遺体は引揚げ作業が難航し、そのまま流されてしまうものが多数あった。そのため、幸畑村を流れる駒込川に流出防止の柵を構築し、そこに引っ掛かった遺体から順次収容して行った。

しかし、雪解けで水量が増加したこともあり、柵を越え海まで流された遺体もあった。

発見された遺体は、最終的に5連隊駐屯所に運ばれ、そこで遺族と面会、確認の後、そこで荼毘に付されるか故郷へ帰っていった。腐敗がひどく身元がなかなか判明しない遺体もあった。最後の遺体収容は5月28日であった。

遭難の原因

原因は諸説あるが、決定的な原因ははっきりしていない。現在唱えられている原因を列挙する。

気象条件

雪中行軍が行われた時は、冬季に典型的な西高東低の気圧配置で、未曾有の寒気団が日本列島を襲っていた。

日本各地で観測史上における最低気温を更新した日でもあった。青森の気温は例年より8~10℃程低かった。青森市内の青森測候所の1月24日の観測記録では最低気温が氷点下12.3度、最高気温は氷点下8度、最大風速14.3 メートルであり、山間部ではこれより厳しいものであった。

行軍隊の遭難した山中の気温は、観測係であった看護兵が記録も残せず死亡したため定かでないが、-20℃以下だったとの推測を青森5連隊が報告書の中で残している。

稚拙な装備

雪中行軍時、将兵の装備は、特務曹長(准士官)以上が「毛糸の外套1着」「毛糸の軍帽」「ネル生地の冬軍服」「軍手1足」「長脚型軍靴」「長靴型雪沓」、下士卒が「毛糸の外套2着重ね着」「フェルト地の普通軍帽」「小倉生地の普通軍服」「軍手1足」「短脚型軍靴」と、冬山登山の防寒に対応しているとは言い難い装備であった。

とくに下士官兵卒の防寒装備に至っては、毛糸の外套2枚を渡されただけである。倉石大尉はゴム靴を持っていたことが結果として凍傷を防いだと言われるが、これは正月に東京に行った際にたまたま土産物として買っていたものであった。

当時はまだ日本においてはゴム靴というのはハイカラな靴(いわゆるファッションブーツ)として扱われていたにすぎず、倉石大尉が本行軍で履いていたのは単なる偶然である。

指揮系統の混乱

雪中行軍隊の指揮官は行軍隊長の神成大尉であるが、これに山口少佐と若干名の大尉や見習士官、長期伍長が大隊本部として同行している。

中隊に大隊本部が随行するのは通常の形でもあるが、山口少佐が神成大尉に断りもなく独断で指示をしていたとの証言もある。山口少佐は最終的な責任者であるが神成大尉との間に意思決定の不統一もあったと思われる。

極端な情報不足

神成大尉が雪中行軍隊の指揮を任されることになったのは、行軍実施の直前(3週間くらい前)である。それまでの担当者は夫人出産の立会いのため、任を解かれる形となる。

その為、実際の雪中行軍に対して神成大尉は何も予備知識を持たないまま準備作業に入るが、準備作業としては、予行演習の日帰り行軍を小峠まで新兵による小隊編成で行ったのみで、今回の雪中行軍参加者は誰一人参加していない。

その行軍自体が晴天下で行われた事もあり、冬山登山や雪中行動の基本的リスクの抽出が結果として行われなかったことになる。

なお、神成大尉に関しては、少なくとも将校になってから、雪中行軍に参加したとの記録はないし、参加将校の半分は雪国の出身ではない。

また兵士たち自身が露営地において、凍傷で動けなくなることを恐れ、朝まで待たずに夜中に雪濠を出発したことも大きな原因である。

このため部隊は暗夜道に迷い、鳴沢付近を彷徨することとなり、これが多くの兵の体力を奪い大量遭難につながったのである。

認識不足

雪中行軍参加者のほとんどは岩手県、宮城県など寒冷地の農家の出身者であったが、厳冬期の八甲田における防寒の知識(八甲田の雪は綿雪と呼ばれ、岩手や宮城の湿雪とは全く性質を異にする)は皆無だった。

さらに予備行軍が好天に恵まれ雪の中の遠足のようであったとの話も広まり、雪中行軍をトレッキングと同列に考えている者が多かったといわれる。

第5連隊では、出発の前日に壮行会が開かれており、深夜まで宴会が行われていた事も、「過酷な行軍」との認識が希薄だった事をうかがわせる。

長谷川特務曹長は「田代といっても僅かに5里ばかりで、湯に入りに行くつもりで、たった手ぬぐい1本を持っただけだった」と語っている。

実際はマッチや蝋燭のほか予備の足袋を持参していた。また、長谷川は凍傷の防止に対する知識があり、予備の足袋を手袋代わりに使用し、常に手の摩擦を怠らず、さらに軍銃の皮と毛皮製の外套の襟を剥がして足に巻き凍傷を防いでいた。

遭難始末によれば、“山登り”という事で履物を普段の皮製の軍靴から地下足袋に換えて参加した兵士も何名かいたことが確認されている(氏名までは不詳)。

生存者の小原伍長の証言によれば、誰も予備の手袋、靴下を用意しておらず、装備が濡れてしまったら換えはなく、そこから凍傷が始まり、体温と体力を奪われ凍死していったという。

小原伍長自身も「もしあの時、予備の軍手、軍足の一組でも余計にあれば自分は足や指を失わなかっただろうし、半分の兵士が助かっただろう」と後年、供述している。

「遭難始末」ほか当時発刊された各種遭難顛末には、行軍前日、大隊長及び軍医の命令として、防寒の充実、凍傷の防止、食事等について各小隊長に詳細な注意事項が伝えたとされているが、結果的にはその注意事項が兵卒にまで伝えられなかったか、聞いたものの格段の準備をしなかったものと思われる。

兵卒の生存者は全員山間部の出身で、普段はマタギの手伝いや炭焼きに従事している者達だった。

彼等は冬山での行動にある程度習熟していたが、凍傷に関する知識はなく、平澤の炭小屋で救出された長谷川特務曹長の談によれば、炭焼小屋で兵卒が凍傷の手をじかに火にかざしたため見る間に火傷を負ったが誰もそれに気がつかず一層凍傷を悪化させる結果となったため、自らはすぐに火にあたらず、ひたすら手足の摩擦を行ったと供述している。

なお、将校の生存確率が高いのは、兵卒のように銃を持っていなかったことや行李運搬に携わらなかったこと、防寒機能が高い装備が一因と言われている。

弘前歩兵第31連隊

弘前ルートで入山した弘前歩兵第31連隊38名も、激しい風雪に悩まされたが、ほぼ全行程で案内人を立てたお陰で見事に踏破を果たし、途中で足を痛めた1名を三本木から帰還させた以外は無事全員生還した。

1902年(明治35年)1月20日、案内人7名を雇い、弘前を出発。1月27日、田代の小屋が発見できなかったため、雪中露営し、4mの雪壕をつくる。

福島隊は悪天候の中で民家に到着するも、わずか2時間足らずで出発するなど十分な休息もとらず、踏破するタイムを気にしての強行軍であった。弘前第31連隊が全員無事帰還できた理由は下記のようなものとされている。

天候不良で田代新湯にたどり着けないと判断するやいなや、深さ4メートルに至る穴を掘ってビバークし、案内人が休憩のできる小屋を発見するまでむやみに彷徨せず、露営地に留まっていたこと。

連隊を率いた指揮官・福島泰蔵大尉が、寒冷に対するさまざまな工夫を考案しており、周知徹底していた(例;雪中行軍の研究という目的から、隊員の荷物を最小限とし、食糧や藁靴など消耗品の補給、宿泊を全部現地の民間に委ねたことなど)。

連隊が比較的少人数で、最後まで統率を失わなかったこと。
隊員に地元青森の出身者が多く、選抜に当たっても応募者の体格や素質が充分考慮されたこと。

福島大尉が過去2年間にわたり、岩木山雪中行軍などを実施しており、露営を含め、雪中行軍を熟知していたこと。

1月29日に、弘前歩兵第31連隊は早朝に青森に到着。地元の歓迎を受けるが、公式には、この日に青森隊の遭難を知ることになった。1月31日、弘前に到着。予定よりも1日多い11泊12日の行程で、1名の初期における帰還をのぞき全員が無事完遂した。

行軍途中の遭難隊の目撃説

福島泰蔵大尉率いる弘前歩兵隊が青森隊の遭難を知ったのは公式には田茂木野に着いてからとされているが、途中凍死者および銃を見たとの証言が従軍記者や隊員の記録にある。

また、遭難者の顔を見ようと軍帽を外そうとしたところ、顔の皮膚まで剥がれて軍帽に付着したとの記述もある。従軍に参加した東奥日報記者の東海勇三郎が行軍中銃及び凍死体を見たという号外の記事について、後日、東奥日報は訂正記事を載せている。

しかし、福島大尉による「この二日間の事は語るべからず」という命令やその後の軍の緘口令により、現地で見たこと、その他軍の不利になるような事はすべて封じられた。

自らも遭難しそうな状況下で救助は事実上不可能だったが、遭難を発見しながら救助活動をしなかったことへの非難や、31連隊が成功したのに同じルートをたどった5連隊が失敗した責任を5連隊や第八師団の首脳部が問われることを避けたかったためなどが主な理由とされる。

行軍に成功した31連隊であるが、戦争を目前に軍部への批判を恐れた上層部がこの成功の事実を世間には隠蔽したともされる。

案内人の証言と被害

31連隊とともに田代への道案内で駆り出された地元の一般人も後遺症の残る凍傷などの被害を受けている。国などから補償のあった遭難兵士と違い、道案内の地元民には1人2円の案内料以外は渡されていない。

後日発表された当時の案内人の言によれば、実際には田代に向けた行進において、引き返すことを進言した案内人を叱り飛ばし無理矢理案内をさせたばかりか、田代近辺の露営地に着くなり休憩する間も与えず、案内人の一部を人質として拘束したうえで、残りの者に田代新湯への斥候を命じたとある。

結局、新湯は見つからず、途中に発見した開拓者の小さな小屋を明け方に発見し、全員は中に入りきれないので足踏みをしながら朝まで交代で小屋の内外で休憩をした。

また、31連隊の福島隊は、八甲田山系の最難関を通過後、小峠付近で疲労困憊の案内人たちを置き去りにして部隊だけで田茂木野に行軍していった。

これら案内人はすべて重度の凍傷を負い、うち一人は入院するも回復せず、廃人同様となったまま16年後に死亡、また別の一人は凍傷のため頬に穴があき、水を飲むのにさえ苦労したという。

これらの事実は1930年(昭和5年)になって初めて明らかにされたが、地元では“七勇士”として、その功績を称える石碑も翌年に建立された。

[出典:Wikipedia]

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