近所にね、ひとり暮らしの年寄りがいるんですよ。
ことあるごとに、娘さんがうちの店に寄って話してくれるもんで、顔も名前も、よく知ってる気になってました。
九十をとうに越えて、もう骨なんか透けて見えるんじゃないかってくらい、細くて小さな身体でね。でも不思議なことに、ぴんとしてるんです。耳も遠くないし、目もまだ眼鏡なしで新聞を読むっていうんだから。
ああ、きっとあの世代特有の強さなんでしょうね。戦争も貧乏も、いろいろ潜り抜けてきた女の人ってのは、やっぱり違う。
でも、やっぱり一人暮らしってのは、心細いもんなんだろうな。娘さんが言うには、兄弟三人で交代で様子を見に行ってるらしいんだけど、先月、みんな都合が合わなくて、一週間ほど誰も行けなかったらしいんです。
それで、長女さんがようやく顔を出したら、コタツの中でおばあさんがうつむいたまま、誰かと話していたって言うんですよ。しかも、ブツブツ、ブツブツ、まるで赤ん坊をあやすみたいに優しい声で。
「そうかそうか、お前は今日も元気だったかい。気をつけてお帰りよ……また来ておくれね」
そりゃもう、背筋が凍ったって言ってました。認知症の症状が急に進んだんじゃないかと、心配で泣きそうになったって。
でもね、おばあさん、ぴたりと話すのをやめて、長女の顔を見るなり立ち上がって、お茶をいれてくれたんですって。あっけらかんとした顔で。
そして、こう言ったんですよ。
「あんた、あたしがボケたと思ったろう。ふふふ、ボケてなんかいないよ。最近ね、友達ができたんだよ。毎日遊びに来てくれるんだ」
なんでも、小さな蜘蛛だったそうです。ハエトリグモ。台所のシンクで滑って、出られなくなっていたのを助けたんだって。ほんの一センチにも満たない、ちょこまかしたやつ。
最初はただの気まぐれだった。けど、蜘蛛の方からおばあさんの手に乗ってきて、じっと顔を見つめてきたもんだから、ぞくりとしたそうです。まるで何か、言葉の代わりに「ありがとう」とでも言っているようで。
翌日から、その蜘蛛が毎日現れるようになった。おばあさんがコタツでうたた寝していると、ちゃっかり足元に現れて、畳の上をくるくる回ったり、時にはお茶菓子の包み紙の上でじっとしていたり。
で、話しかけると、まるで聞いているように、ピタリと動きを止めて、じっと見つめてくるんですって。
私はね、その話を聞きながら、笑ってしまいましたよ。蜘蛛が相槌を打つなんて、まるで童話の世界でしょう? でもね、おばあさん、真顔でこう言ったらしいんです。
「この前ね、セールスマンが来たんだよ。強引で、話を切れなくてさ。玄関先で断れないでいたら、いつの間にか、あの蜘蛛がテーブルの上にいてね。契約書の上を這いまわったんだよ」
その男、蜘蛛が大の苦手だったらしくて、見るなり「ひっ」とか叫んで、逃げるように帰って行ったんだそうな。おばあさんは言いました。
「蜘蛛の恩返しって、昔話だけだと思ってたけど、本当にあるもんなんだねぇ」
ね、ちょっといい話みたいに聞こえるでしょ?
でも、それだけじゃなかったんですよ。
その日から、おばあさん、食事の量が減ったって言うんです。いや、食べたがらないんじゃない。なんだか、誰かに分けているようなそぶりで、箸を止めて、少しずつ残すようになった。
「おなかいっぱいなんだよ」と笑ってはいたけれど、冷蔵庫の中の食材が、妙に減っている。保存の利かないものばかり。
それから数日後、また娘さんが訪れたとき、こう言ったそうです。
「蜘蛛の友達が、もうひとり連れてきたんだよ。今度は、もっと大きいんだ」
大きい? って、どれくらい?
「両手を広げたくらい」
娘さん、青くなって飛び出してきたらしいですよ。そんな大きな蜘蛛、見たことないって。でもおばあさんはにこにこしてて、「もうすぐ迎えが来るから」とか言ってたって。
その日の晩、おばあさん、亡くなりました。
死因は老衰。苦しんだ様子もなく、こたつで安らかな顔をしていたそうです。
でも、私、娘さんからこっそり聞いたんですよ。発見されたおばあさんの周りにね、小さな蜘蛛の死骸が、いくつも落ちていたって。まるで、何かを囲むように。
そして、おばあさんの喉元には、小さな黒い痕があったそうです。まるで……無数の牙で、何かを「吸われた」ような。
娘さん、その後、家を引き払うまで、どうしても台所の天井の隅を直視できなかったって。
今も、思い出すたびに背筋が寒くなります。
──蜘蛛と、おばあさんの話です。
[出典:310 :3-1@\(^o^)/:2016/05/10(火) 11:27:40.92 ID:my1MCSdO0.net]