今でも忘れられない。とても怖くて、不思議な体験だ。
一年半ほど前、私がまだOLとして働いていた頃の話になる。
毎日のデスクワークに疲れ切っていて、帰りの電車では終着駅まで寝てしまうのが習慣だった。混んでいて座れない日は、立ったままうとうとすることもあった。
その日は残業で遅くなり、終電近い時間の電車に乗った。車内には数人しかいない。私は座席の端に腰掛け、壁の手すりにもたれ、そのまま浅い眠りに落ちた。
……ふと目を開けると、電車はまだ走っている。
終着駅が近づくと自然に目が覚めるはずなのに、おかしいと思いながら、前の窓に映る自分の顔をぼんやり見ていた。
次に気づいたときも、電車は走っていた。
嫌な予感がして携帯で時間を確認する。
二時一分。
頭が一気に冴え、体の奥が冷えた。
何度見直しても時間は変わらない。
周囲を見回すと、誰もいなかった。
車内には私一人。
電車は一定の速度で走り続けている。
実家に電話をかけようとすると、圏外表示。
地下鉄ではない。
前の車両へ行けば車掌がいる。そう思って立ち上がった瞬間、電車が減速し、駅に停まった。
《高九奈駅》
聞いたことのない駅名だった。
ホームは田舎の無人駅のようで、人の気配がない。闇の向こうには田んぼと山の影しか見えない。
ドアが開く。
降りていいのか分からず迷っているうちに、ドアは閉まり、電車は再び走り出した。
やはり車掌に聞こう。
そう思って前方へ歩き始めた。
何車両進んでも人はいない。
不安が募る中、前の方にぽつんと座っている影が見えた。
小学校低学年くらいの男の子だった。
携帯ゲーム機に夢中になっている。
声をかけると、少年は一瞬だけ驚いた顔をしてこちらを見た。
電車がどこへ向かっているのか尋ねると、首を振った。
「分からないよ。でも……」
電車が減速する。
「お姉さんは、まだここに来ちゃだめ」
意味を聞き返す前に、電車は駅に停まった。
《敷草谷駅》。
ドアが開く。
少年は立ち上がり、何気ない動作でホームへ降りた。
「たまに、お姉さんみたいな人いるんだ」
私も降りようとしたが、少年が振り返った。
「それはだめ。でも、どうしても来たいなら……」
そのとき、少年が笑った。
悪意だけで形作られたような、張り付いた笑顔だった。
体が動かなかった。
ドアが閉まり、電車が走り出す。
少年はホームに立ったまま、こちらを見ていた。
私は生きているのだろうか。
そんな考えが頭をよぎった。
そのとき、静かな車内に着信音が響いた。
父からだった。
通話はつながり、圏外表示は消えている。
私は泣きながら事情を話した。
父は駅で降りろと言い、GPSで場所を調べると言った。
次の駅で降りた。
駅名は錆びて読めない。
電車はそのまま闇へ消えていった。
父との通話は切れた。
私はホームに一人残された。
無人駅。
外灯もなく、田んぼと山しか見えない。

父から再度電話があり、GPSはエラーになると言われた。
駅名を伝えると調べると言って切れた。
携帯の電池は残り一つ。
私は線路沿いに歩くことにした。
どれだけ歩いても、前の駅に着かない。
背後から視線を感じる。
疲れ切って座り込んだとき、遠くに光が見えた。
近づいてきたのは車のヘッドライトだった。
助けを求めて手を振る。
車は止まり、中から父が出てきた。
私は父に抱きついた。
安心した。
車に乗り、父は何も言わず運転する。
しばらくして携帯が鳴った。
「美津子か。今、居場所が分かった。迎えに行く」
電話口の声は父だった。
だが、横には運転している父がいる。
携帯の電源が落ちた。
隣の父は無言で運転を続ける。
窓の外は山深くなっていく。
「……早く……行かないと……」
低い声が聞こえた。
父の声ではなかった。
私は車が減速した瞬間、ドアを開けて飛び降りた。
次に目覚めたのは病院だった。
山道で倒れていたところを通行人に発見されたという。
家に戻り、父に尋ねた。
迎えにも行っていないし、電話もしていないと言われた。
携帯には、未送信のメールが一通だけ残っていた。
内容は、駅名の文字列だった。
変換履歴には、
「高九奈」
「敷草谷」
今でも、あの電車がどこへ向かっていたのか分からない。
ただ一つ分かっているのは、
降りる場所を、間違えなくてよかった。
(了)