あれは、もう何年も前のことだ。
今でも五月になると、私は郷里の小さな神社へ行く。
願い事があるわけではない。
ただ、確かめたいことがある。
当時、私は小さな金属加工工場を経営していた。
機械油と鉄粉の匂い。旋盤の音。削られた金属片が照明を受けて、床に細かな光を散らしていた。
長く見慣れたはずの光景が、その頃の私にはひどく重かった。
不況で仕事が減り、帳簿を開くたびに赤字が増えていた。支払いの日付ばかりが近づいてくる。何をしても間に合わない気がした。
やがて私は、死ぬ準備を始めた。
子どもたちはもう成人している。
負債も生命保険で何とかなる。
そんなふうに、一つずつ自分を納得させていった。
今なら、それがどれほど身勝手な計算だったかわかる。だが当時の私には、来月どころか、明日のことを考える力さえ残っていなかった。
五月の連休に、家族には何も告げず郷里へ帰った。
実家はもうない。
残っているのは、子どもの頃に駆け回った山と川、それから裏山の坂を上ったところにある古い神社だけだった。
村の氏神様である。
私はそこで、これから死ぬことを報告しようと思っていた。
寺へ行くことも考えた。
だが住職や知った顔に会えば、何をしている、仕事はどうだ、家族は元気かと聞かれるかもしれない。
それが嫌だった。
だから、人のいない神社を選んだ。
坂を上ると、古びた鳥居が見えた。
五月にしては少し暑い日だった。額の汗を拭い、鳥居をくぐった。
境内には誰もいなかった。
常駐の神主もいない小さな神社で、砂利の上には落ち葉が残っていた。風もないのに、木々の高いところだけで葉が擦れる音がしていた。
手水舎には、山から引かれた清水が流れ続けていた。
石の鉢を満たした水が縁から細くあふれている。
私は手を清めようとして腰をかがめた。
水の底を覗いた。
その瞬間だった。
視界が歪んだ。
立ちくらみだと思う間もなく足元が消え、私は頭から水の中へ落ちた。
手水鉢の深さなど、せいぜい五十センチほどだったはずだ。
それなのに、沈んだ。
真っ逆さまに。
耳元で水が鳴り、上下もわからなくなった。
次の瞬間、両足が硬いものに着いた。
私は立っていた。
周囲を見回した。
半径一メートル半ほどだろうか。
細長い円筒の底にいるようだった。

壁は石でも土でもない。真珠の内側のような滑らかな光沢があり、照明などないのに、壁そのものがぼんやり明るかった。
腰のあたりまで水に浸かっていた。
だが、冷たくない。
見上げると、はるか頭上に丸い穴があった。
十メートルほど上だろうか。
その向こうで水面らしいものが揺れていた。
手水鉢の水面だ、とその時は思った。
おかしな話だ。
水面が頭上にあるのに、私はその下で普通に息をしている。
そして腰から下だけが、水に浸かっている。
恐怖より先に、理解できないという感覚があった。
その時、足元で何かが動いた。
イモリだった。
二十センチほどもある、大きなイモリ。
澄んだ水の底をゆっくり泳いでいる。
口から何かが突き出していた。
青蛙だった。
半分ほど呑み込まれ、前足だけを外に出している。
蛙はまだ生きていた。
小さな前足を何度も動かしていた。
水を掻いているのか、イモリの顔を押し返そうとしているのかわからない。
だが、少しも抜けない。
イモリも呑み込まない。
ただ、その状態のまま泳いでいた。
私は目を離せなくなった。
資金繰りに追われていた自分の姿が重なったのだと思う。
逃げようとしても逃げられず、それでも手足だけを動かし続けている。
私は屈み、蛙へ手を伸ばした。
その時、声がした。
耳から聞こえたのではない。
頭の中に、いきなり言葉だけがあった。
『そうだ。その蛙はお前だ』
手が止まった。
続けて、声は言った。
『死んだあとの、お前だ』
その直後だった。
がつん、と額に強い衝撃を受けた。
視界が白くなった。
気がつくと、私は手水鉢の前にいた。
石の縁にもたれかかるようにして座っていた。
額が痛んだ。
触れると指先がぬるりとし、血がついていた。
境内で血を流すのはまずいと思い、慌ててハンカチで押さえた。
そして、ほとんど逃げるように鳥居を出た。
そこで気づいた。
服が濡れていなかった。
袖も、ズボンも、靴も。
一滴も。
それなのに、右手だけが冷たかった。
蛙へ伸ばした手だった。
その日のうちに郷里を離れた。
帰り道、私は何度も考えた。
気を失って夢を見たのかもしれない。
手水鉢へ頭をぶつけ、その一瞬に長い夢を見ただけなのかもしれない。
そう考えれば説明はつく。
少なくとも、服が濡れていなかったこと以外は。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
あれほど頭から離れなかった「死ぬ」という考えが、消えていた。
怖くなって死ねなくなった、というのとも少し違う。
選択肢そのものが、なくなっていた。
郷里から戻り、私は工場の立て直しに取りかかった。
すぐにうまくいったわけではない。
苦しい時期はその後も続いた。
それでも、追い詰められるたびに、あの青蛙の前足を思い出した。
水の中で、何度も、何度も動いていた小さな手を。
それから毎年、五月になるとあの神社へ参拝している。
何かを願うことはない。
礼を言うこともしない。
ただ手水舎へ行き、石の鉢を覗く。
あれ以来、イモリを見たことは一度もない。
蛙もいない。
底まで透き通った、ごく普通の浅い水があるだけだ。
だから長い間、あれは一度きりのことだったと思っていた。
ただ、ここ数年、少し気になることがある。
水を覗いていると、ときどき底のほうで小さなものが動く。
葉でも虫でもない。
よく見ようとして顔を近づけると、見えなくなる。
今年もそうだった。
私はしばらく水面を見つめ、それから手を入れた。
冷たい水だった。
手を引き抜き、ハンカチで拭いた。
その時、気づいた。
水の中に、まだ手が一本残っていた。
私の右手と同じ場所から伸びていた。
青白い指先が、底のほうへ向かって何度も何度も、
何かを掴もうとしていた。
[出典:503 :本当にあった怖い名無し:2012/06/09(土) 16:14:22.28 ID:K12mg2qN0]