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右手だけが冷たい rw+2,211

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あれは、もう何年も前のことだ。

今でも五月になると、私は郷里の小さな神社へ行く。

願い事があるわけではない。
ただ、確かめたいことがある。

当時、私は小さな金属加工工場を経営していた。

機械油と鉄粉の匂い。旋盤の音。削られた金属片が照明を受けて、床に細かな光を散らしていた。

長く見慣れたはずの光景が、その頃の私にはひどく重かった。

不況で仕事が減り、帳簿を開くたびに赤字が増えていた。支払いの日付ばかりが近づいてくる。何をしても間に合わない気がした。

やがて私は、死ぬ準備を始めた。

子どもたちはもう成人している。
負債も生命保険で何とかなる。

そんなふうに、一つずつ自分を納得させていった。

今なら、それがどれほど身勝手な計算だったかわかる。だが当時の私には、来月どころか、明日のことを考える力さえ残っていなかった。

五月の連休に、家族には何も告げず郷里へ帰った。

実家はもうない。

残っているのは、子どもの頃に駆け回った山と川、それから裏山の坂を上ったところにある古い神社だけだった。

村の氏神様である。

私はそこで、これから死ぬことを報告しようと思っていた。

寺へ行くことも考えた。
だが住職や知った顔に会えば、何をしている、仕事はどうだ、家族は元気かと聞かれるかもしれない。

それが嫌だった。

だから、人のいない神社を選んだ。

坂を上ると、古びた鳥居が見えた。

五月にしては少し暑い日だった。額の汗を拭い、鳥居をくぐった。

境内には誰もいなかった。

常駐の神主もいない小さな神社で、砂利の上には落ち葉が残っていた。風もないのに、木々の高いところだけで葉が擦れる音がしていた。

手水舎には、山から引かれた清水が流れ続けていた。

石の鉢を満たした水が縁から細くあふれている。

私は手を清めようとして腰をかがめた。

水の底を覗いた。

その瞬間だった。

視界が歪んだ。

立ちくらみだと思う間もなく足元が消え、私は頭から水の中へ落ちた。

手水鉢の深さなど、せいぜい五十センチほどだったはずだ。

それなのに、沈んだ。

真っ逆さまに。

耳元で水が鳴り、上下もわからなくなった。

次の瞬間、両足が硬いものに着いた。

私は立っていた。

周囲を見回した。

半径一メートル半ほどだろうか。
細長い円筒の底にいるようだった。

壁は石でも土でもない。真珠の内側のような滑らかな光沢があり、照明などないのに、壁そのものがぼんやり明るかった。

腰のあたりまで水に浸かっていた。

だが、冷たくない。

見上げると、はるか頭上に丸い穴があった。

十メートルほど上だろうか。

その向こうで水面らしいものが揺れていた。

手水鉢の水面だ、とその時は思った。

おかしな話だ。

水面が頭上にあるのに、私はその下で普通に息をしている。

そして腰から下だけが、水に浸かっている。

恐怖より先に、理解できないという感覚があった。

その時、足元で何かが動いた。

イモリだった。

二十センチほどもある、大きなイモリ。

澄んだ水の底をゆっくり泳いでいる。

口から何かが突き出していた。

青蛙だった。

半分ほど呑み込まれ、前足だけを外に出している。

蛙はまだ生きていた。

小さな前足を何度も動かしていた。

水を掻いているのか、イモリの顔を押し返そうとしているのかわからない。

だが、少しも抜けない。

イモリも呑み込まない。

ただ、その状態のまま泳いでいた。

私は目を離せなくなった。

資金繰りに追われていた自分の姿が重なったのだと思う。

逃げようとしても逃げられず、それでも手足だけを動かし続けている。

私は屈み、蛙へ手を伸ばした。

その時、声がした。

耳から聞こえたのではない。

頭の中に、いきなり言葉だけがあった。

『そうだ。その蛙はお前だ』

手が止まった。

続けて、声は言った。

『死んだあとの、お前だ』

その直後だった。

がつん、と額に強い衝撃を受けた。

視界が白くなった。

気がつくと、私は手水鉢の前にいた。

石の縁にもたれかかるようにして座っていた。

額が痛んだ。

触れると指先がぬるりとし、血がついていた。

境内で血を流すのはまずいと思い、慌ててハンカチで押さえた。

そして、ほとんど逃げるように鳥居を出た。

そこで気づいた。

服が濡れていなかった。

袖も、ズボンも、靴も。

一滴も。

それなのに、右手だけが冷たかった。

蛙へ伸ばした手だった。

その日のうちに郷里を離れた。

帰り道、私は何度も考えた。

気を失って夢を見たのかもしれない。

手水鉢へ頭をぶつけ、その一瞬に長い夢を見ただけなのかもしれない。

そう考えれば説明はつく。

少なくとも、服が濡れていなかったこと以外は。

ただ、一つだけ確かなことがあった。

あれほど頭から離れなかった「死ぬ」という考えが、消えていた。

怖くなって死ねなくなった、というのとも少し違う。

選択肢そのものが、なくなっていた。

郷里から戻り、私は工場の立て直しに取りかかった。

すぐにうまくいったわけではない。

苦しい時期はその後も続いた。

それでも、追い詰められるたびに、あの青蛙の前足を思い出した。

水の中で、何度も、何度も動いていた小さな手を。

それから毎年、五月になるとあの神社へ参拝している。

何かを願うことはない。

礼を言うこともしない。

ただ手水舎へ行き、石の鉢を覗く。

あれ以来、イモリを見たことは一度もない。

蛙もいない。

底まで透き通った、ごく普通の浅い水があるだけだ。

だから長い間、あれは一度きりのことだったと思っていた。

ただ、ここ数年、少し気になることがある。

水を覗いていると、ときどき底のほうで小さなものが動く。

葉でも虫でもない。

よく見ようとして顔を近づけると、見えなくなる。

今年もそうだった。

私はしばらく水面を見つめ、それから手を入れた。

冷たい水だった。

手を引き抜き、ハンカチで拭いた。

その時、気づいた。

水の中に、まだ手が一本残っていた。

私の右手と同じ場所から伸びていた。

青白い指先が、底のほうへ向かって何度も何度も、

何かを掴もうとしていた。

[出典:503 :本当にあった怖い名無し:2012/06/09(土) 16:14:22.28 ID:K12mg2qN0]

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