あれは、もう何年も前のことだ。
思い出すたびに胸の奥がひやりとし、同時に奇妙な温もりが指先に残る。
当時、私は金属加工の小さな工場を経営していた。機械の油と鉄粉の匂いに包まれた職場。旋盤の音は一日中鳴り響き、金属片が光の粒となって舞う……そんな日々が、いつからか恐ろしく重く感じるようになっていた。不況の波は容赦なく、数字は毎月、赤字という形で私を刺してくる。逃げ道はどこにもないように思えた。
思い詰めた末に、私は静かに死ぬ準備をはじめた。
子どもたちはすでに成人していた。負債は生命保険で何とかなる額。そう言い聞かせれば、後ろめたさも少しは薄れると思った。今にして思えば愚かしい。だが、あの時の私は心をすり減らし過ぎて、未来を想像する力を完全に失っていた。
五月の連休。
家族には何も告げず、郷里へ向かった。といっても、実家はとうになく、残っているのは幼い頃に駆け回った山と川だけ。そこに一つ、古い神社がある。裏山の坂を上った先、ひっそりと鎮座する村の氏神様だ。私はその神社に「これから死にます」と報告するために帰ってきたのだ。
寺に行くという選択肢も頭をよぎった。しかし、住職や家族に顔を合わせ、現状を詮索されることを想像すると、それだけで全身が重くなる。だから私は人の少ない神社を選んだ。
坂道を上ると、鳥居が見えてきた。木の色は日焼けし、苔の緑が縁を彩っている。息が少し上がり、額に汗が滲む。鳥居をくぐると、境内はしんと静まり返っていた。常駐の神主もいない神社。参拝者の足跡すら珍しいようで、砂利の上には小さな落ち葉が積もっていた。
手水舎の石の鉢に、山から引かれた清水がこんこんと注ぎ込まれていた。私は手を清めようと腰をかがめ、底を覗き込んだ。その瞬間、視界がぐにゃりと揺れ、足元が崩れるような感覚に襲われた。気がつくと頭から水へ突っ込んでいた。
深さは五十センチ程度のはずなのに、私の体はまるで井戸に落ちたかのように、真っ逆さまに沈んでいく。耳にばしゃりと水音が広がり、次の瞬間、足が固い底に着いた。衝撃はあったが、不思議なことに痛みはまったくない。
そこは奇妙な空間だった。
半径一メートル半ほどの円筒形の部屋。壁は滑らかで真珠のような色と光沢を帯び、内部からほのかな光を放っている。足元には一メートルほどの水が溜まり、その中に私は立っていた。水は驚くほど澄んでいて、冷たさもほとんど感じない。
見上げると、十メートルほど上空に手水鉢と思しき穴が見えた。そこに波紋がゆらゆらと揺れている。奇妙なことに、私の頭は空気中にあり、呼吸は普通にできる。腰から下だけが水に浸かっているという、現実ではあり得ない状態だった。
ふと足元の動きに気づいた。
二十センチほどの井守(イモリ)が、水底をすいすいと泳いでいる。その口には小さな青蛙が半分ほど突っ込まれていた。蛙はまだ生きていて、必死に前足をばたつかせている。だが逃れることはできず、その姿は延々と続く苦痛の時間に閉じ込められているようだった。
奇妙な既視感が胸を締めつけた。
――これは自分だ。資金繰りに追われ、もがきながらも逃げられない私の姿だ。そう思った瞬間、私は屈み込んで手を伸ばし、蛙を救おうとした。
その時だ。
声が響いた。耳ではなく、頭の奥に直接届く声。
『そうだ、その蛙はお前だ。ただし今のお前ではない。死を選んだのち、罰を受け続けるお前の姿だ』
心臓が跳ねた。
次の瞬間、強い衝撃――がつん、と何かにぶつかり、視界が白くはじけた。
気がつくと、私は手水鉢の縁にもたれかかっていた。額にじんわりとした痛みと、ぬるりとした感触。触れると血が滲んでいる。境内で血を流すのは穢れだと思い、慌ててハンカチで押さえながら鳥居をくぐり、外へ出た。
驚くべきことに、服は一滴も濡れていなかった。
そして、あれほど頭の中を支配していた「死」という選択肢は、跡形もなく消えていた。
郷里から戻った私は、工場の経営再建に全力を注いだ。苦しい時期もあったが、なぜかあの蛙の姿を思い出すと、不思議な力が湧いた。
それ以来、毎年五月になると、あの神社へ必ず参拝している。
何を祈るでもなく、ただ、そこに立ち、あの静かな光を思い出すために。
[出典:503 :本当にあった怖い名無し:2012/06/09(土) 16:14:22.28 ID:K12mg2qN0]