夜勤明けの喫茶店は、世界が少しだけ遅れている。
それは感覚の話だった。砂糖の瓶に射し込む朝の光が、どこかで止まりかけているように見えるとか、レジの電子音が鳴ったあと、音の残り香だけが空気に貼りつくとか、その程度のことだ。説明すれば気のせいで片づく。俺自身、そうやって処理してきた。
だからこの店に来る。夜勤明けの頭は、現実と夢の境目が曖昧で、少しくらい世界が歪んでいても受け入れられる。
窓際の席に、先に男が座っていた。大学時代の知り合いだ。最近は会えば必ず同じ話をする。
「それ、まだ使ってんのか」
顎で俺のスマホを指す。AIのことだ。
「使うよ」
「ズルだろ」
「電卓もズルだったな」
「それとは違う」
彼はそう言い切った。声に迷いはなかった。ズルだと断じることで、守れるものがある顔をしていた。
「じゃあ、三十秒だけ」
俺はスマホをテーブルに置いた。お題を出させて、短い話を作らせた。二百字。最後に一度だけ、背中が冷えるように。
読み上げたあと、彼は鼻で笑った。
「薄い」
「そうだな」
俺は否定しなかった。薄い。だが、それでいい。
そのとき、ドアベルが鳴った。チリン。
半拍遅れて、もう一度鳴る。
誰も入ってこない。店員も振り向かない。客も気づかない。俺と彼だけが音を聞いた。
「今の、聞いたか」
「……ああ」
レジの電子音が鳴る。ピッ。
半拍遅れて、またピッ。
店員が困ったように画面を覗き込んだ。
「すみません、いま、勝手に……」
彼が小声で言った。
「バグってんじゃねえの」
「前からだ」
俺はそう答えた。前から、少しずつ遅れていた。
店員は操作を止めて、こちらを見た。
「お客様、会計は……」
「まだ」
店員は首を傾げた。
「変ですね。注文が……」
言葉を切って、画面をこちらに向ける。
表示されていたのは、二年前の日付だった。時刻も、客単価も、当時のまま。俺がこの店に通い始めた頃だ。
「戻ってきてるみたいで」
「何が」
「注文です」
彼の顔色が変わった。
「戻るって、どういう……」
「消えていたものが、です」
店内が静まり返る。テレビは無音のまま、アナウンサーが半拍遅れて口を動かした。
俺は席を立った。伝票を持ってレジに向かう。表示された金額は、あり得ないほど安かった。
「いいんですか」
「……その値段で、処理されています」
会計を済ませた瞬間、スマホが勝手に点灯した。通知が一件。送信者も件名もない。
《あなたの注文は、すでに出ています》
背中が冷えた。
振り向くと、さっきまで俺が座っていた席に、もう一人、俺がいた。夜勤明けの顔で、砂糖の瓶を見つめている。まばたきの間隔が、ほんの少し遅い。
彼ではない。俺だ。
その俺が、口を開いた。
「それって、ズルじゃん」
声は、半拍遅れて届いた。
彼が呻いた。
「おい……あれ……」
「静かに」
俺は言った。理由は分からない。ただ、今ここで説明を始めたら、何かが確定してしまう気がした。
店員が震える声で言う。
「すみません……追加の注文が……」
画面には、同じ番号の注文が並んでいた。時間だけが、少しずつズレている。
俺はドアに向かった。外に出れば、この遅れから抜けられる気がした。
ドアベルが鳴る。チリン。
半拍遅れて、もう一度。
外に出た瞬間、冷たい空気が肺に入った。時間は正しく流れている。振り向くと、ガラス越しに店内が見えた。
窓際の席に、俺が二人座っている。
一人は砂糖の瓶を見つめ、一人はスマホを伏せている。どちらも動かない。
レジの電子音が鳴った。ピッ。
半拍遅れて、もう一度。
その音が、俺の背中に貼りついたまま、離れなかった。
(了)