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中編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2026

地下一階の階段 nc+

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三十年前の夜の記憶を辿るとき、まず私の鼻腔を突くのは、あの特有の消毒液の匂いだ。

それは単に清潔であることを示す記号ではなく、生と死が極めて事務的に、かつ無機質に処理されている場所特有の、鼻の奥がツンとするような拒絶の匂いだった。

平成の初め、地方都市の端に位置していたあの総合病院は、昼間は喧騒に包まれていたが、陽が落ちると途端に巨大な墓標のように沈まり返った。父の病室へと向かう廊下は、一定の間隔で配置された蛍光灯が、死にかけの虫が羽ばたくような微細な異音を立てていた。その光は白というよりは、不健康に青ざめた皮膚のような色をしていた。

父の入院生活は長く、私たちはその場所の重苦しさに慣れきっていたはずだった。しかし、その夜だけは違った。面会終了の間際に滑り込んだせいか、看護師たちの歩調もどこか急ぎ足で、すれ違うたびに風が冷たく肌を撫でた。父の病室を出たとき、時計の針はすでに午後八時を大きく回っていた。

一階へと降りるエレベーターを待つ間、私は不意に喉の渇きを覚えた。唾を飲み込むと、ひび割れた土壌のような不快感が喉の奥に張り付いているのが分かった。母にそれを告げると、彼女は少し疲れた顔で、地下に自動販売機があったはずだと言った。

二台並んだエレベーターの表示板を見上げると、一方は五階で、もう一方は八階で止まったまま動く気配がない。階数を示す赤いデジタル数字が、暗いホールの中でじっとこちらを監視しているように見えた。私たちは顔を見合わせ、すぐ脇にある階段室の重い鉄扉に手をかけた。

扉を開くと、そこには踊り場を介して地下へと続くコンクリートの口が開いていた。病院の心臓部から切り離されたような、密閉された空気の塊がそこにはあった。一段、また一段と降りるたびに、私たちの靴音がコンクリートに反響し、幾重にも重なって耳に届いた。

地下一階までの距離は、本来なら知れている。建物の構造上、せいぜい二十段かそこらのステップを踏めば、自動販売機の明るい光が見えてくるはずだった。私は手すりの冷たさを掌に感じながら、リズミカルに足を動かしていた。

最初の踊り場を曲がった。二つ目の踊り場を曲がった。三つ目、四つ目。私の足元で、母の影が揺れている。階段を降りるという単純な反復運動の中で、私は自分の感覚が少しずつ狂い始めていることに気づき始めていた。

母の背中が、私の数段先にある。

彼女は何も言わず、ただ一定の速度で降り続けていた。彼女の着ている薄いカーディガンの背中が、階段の照明に照らされて、時折ぼんやりと発光しているように見えた。

私は喉の渇きを紛らわすために、頭の中で段数を数え始めた。十五、十六、十七。踊り場。十八、十九、二十……。普通ならここで地下のフロアに着くはずだ。しかし、目の前に現れたのは、またしても同じ灰色のコンクリートと、下に続く階段だった。

天井が高いのだ、と私は自分に言い聞かせた。古い病院の設計は、今の基準とは違うのかもしれない。一階分の高さが異常に長いのだ。そう結論づけて、私はさらに足を早めた。

だが、どれだけ降りても景色は変わらなかった。踊り場の壁に貼られた「禁煙」の古びたステッカー。隅に溜まった埃の塊。それらが、まるで映像のループを見せられているかのように、何度も、何度も、私の視界を通り過ぎていく。

私の呼吸は次第に荒くなり、肺の奥が冷たい空気で痛んだ。運動不足ではない。これは、未知の深淵へと引きずり込まれているという、本能的な拒絶反応だった。足の裏から伝わる振動が、直接脳を揺さぶる。

ふと、自分の足音が母の足音と完全に重なっていることに気づいた。右、左、右、左。二人の人間が歩いているはずなのに、響く音は一つしかない。その奇妙な一致に気づいた瞬間、背筋に一本の氷柱を差し込まれたような悪寒が走った。

母は一度も振り返らない。その肩が、小刻みに震えているようにも見えた。彼女は何かを知っていて、それでも降り続けているのか。あるいは、彼女もまた、この無限の下降に囚われて、声も出せなくなっているのか。

私は「ねえ」と声をかけようとしたが、喉が張り付いて音にならない。乾きはすでに限界を超え、舌は口の中で異物のように重たくなっていた。階段の勾配が、心なしか急になっているような錯覚に陥る。私たちは、どこへ向かっているのだろうか。

階段を下りるという行為は、本来、重力に従う受動的な運動のはずだ。

しかしあの夜、私の両足に掛かっていた負荷は、まるで泥の中を這い進むような粘り気を帯びていた。一段踏みしめるごとに、膝の裏が微かに震え、太腿の筋肉が嫌な熱を持つ。踊り場を曲がるたび、空間の継ぎ目が一瞬だけ歪むような、不快な浮遊感が脳を揺さぶる。

母は依然として私の前を歩いている。その歩調には、迷いもなければ焦りもない。ただ機械的に、淡々と、地下へと続く深い闇を削り取っていく。彼女の項に滲んだ汗が、蛍光灯の光を反射して、毒々しい真珠のように光っていた。私はその汗を見つめることで、辛うじて自分の意識がこの現実から逸脱しないよう繋ぎ止めていた。

不意に、母の足が止まった。

その静止はあまりに唐突で、私は危うく彼女の背中に衝突しそうになった。踊り場の中央。壁には「地下一階」を示すプレートなどどこにもない。ただ、上からも下からも、冷たいコンクリートの壁が迫り、私たちの逃げ場を奪っているようだった。

「……着かないね」

母の声は、驚くほど平坦だった。それは感情を押し殺しているというよりは、感情そのものが摩耗して消えてしまったかのような響きを湛えていた。彼女は振り返らず、ただ視線だけを斜め下の闇に落としている。その言葉が、凍りついた空気を裂くように私の耳に届いたとき、私は自分の心臓が、肋骨の内側を激しく叩いているのを自覚した。

「戻ろうか」

その一言が合図だった。母はそのまま、流れるような動作で反転し、今度は階段を上り始めた。私は弾かれたようにその後に続く。重力に逆らうはずの上りの方が、なぜか下りよりもずっと体が軽く感じられた。まるで、何かに背中を押されているかのような、不自然な軽快さだった。

一段、二段。そして踊り場を一つ越えた。

たった一度の折り返し。それだけで、目の前には一階のロビーへと続く、あの重い鉄扉が現れた。扉の隙間から漏れる微かな光。私たちはそれを求めるようにして、一気に地上へと駆け戻った。先ほどまでの、あの終わりのない下降は何だったのか。時計の針は、私たちが階段に入ってから数分も経っていないことを示していた。

病院の外に出ると、夜の風が驚くほど甘く、湿度を帯びて感じられた。駐車場へと向かう砂利の音が、現実の感覚を少しずつ私の指先に連れ戻してくれた。車に乗り込み、エンジンをかけた母は、ハンドルを握ったまましばらく動かなかった。

「あんたが怖がると思って、さっきは言わなかったけど」

前を見据えたまま、彼女がポツリと漏らした。車内のルームミラー越しに目が合った彼女の瞳は、これまでに見たことがないほど深く、暗い淵を湛えていた。

「地下一階には、霊安室があるんよ」

その一言が、車内の空気を一瞬で凍りつかせた。私が欲していた自動販売機の光。そのすぐ隣に、死者たちが眠る静寂の部屋があったのだ。あの無限の階段は、私たちをそこへ招き入れようとしていたのか、あるいは、そこへ到達することを拒んでいたのか。

私は震える手で膝をさすった。母はそれ以上何も語らず、車を走らせた。彼女は幽霊や怪談の類を鼻で笑うような現実主義者だ。その母が、あの階段で何かを「感じ」、そして今の告白をした。その事実が、何よりも重く、私の胸の奥に澱のように溜まっていった。

数週間が過ぎ、父の病状が落ち着いてからも、あの階段の感触は私の皮膚から消えることはなかった。

それどころか、日常の些細な瞬間に、あの冷たいコンクリートの質感が蘇る。学校の階段を下りるとき、デパートの非常階段を見かけたとき。私は無意識のうちに段数を数え、踊り場の数を確かめるようになっていた。

その頃、私はクラスメイトのTにこの話を打ち明けた。Tは根っからのオカルト好きで、心霊写真や都市伝説の類には目がなかった。案の定、彼は私の話に身を乗り出し、目を輝かせた。

「それ、絶対にもう一度行くべきだよ」

Tの言葉は、中学生特有の無謀な好奇心に満ちていた。私は当初、頑なに拒んだが、彼の執拗な誘いと、自分自身の中に芽生え始めていた「あれは何だったのか」という確認作業への欲求に、抗うことができなかった。

私たちは、外来の診察がまだ行われている夕暮れ時を狙って、あの病院へと向かった。母と一緒だった夜とは違い、院内にはまだ人の気配があり、白衣の医師や事務員たちが忙しなく行き交っていた。その活気が、私の恐怖心を少しだけ和らげてくれた。

私たちは迷うことなく、あの一階の鉄扉へと向かった。扉を開けると、そこにはあの夜と同じ、密閉された空気の塊が待ち構えていた。Tはポケットから「写ルンです」を取り出した。当時の私たちは、誰もがその簡易カメラを鞄に忍ばせていた。プラスチックの安っぽい筐体が、蛍光灯の下で鈍く光る。

「行くぞ」

Tが先に立ち、階段を下り始めた。私はその背中を追いながら、心の中で段数を数える。一つ、二つ。そして、最初の踊り場。

あっけなかった。

私たちは、たった一度の折り返しで、地下一階のフロアに辿り着いた。目の前には、眩いほどに明るい自動販売機のコーナーがあり、その奥へと続く長い廊下の先には、確かに重々しい観音開きの扉が見えた。母の言った通り、そこが霊安室なのだろう。しかし、あの夜の、あの底なしの暗闇や、無限に続く階段の気配は微塵もなかった。

「なんだ、普通じゃん」

Tはつまらなそうに肩を竦めた。だが、彼はせっかく来たのだからと、階段の途中まで戻り、踊り場に向けてシャッターを切った。ジーッ、というフィルムを巻き上げるプラスチックの摩擦音が、静かな階段室に不自然に大きく響いた。

「これで証拠はバッチリだ。何かが写ってたら、文化祭の展示に使えるかもな」

Tは軽口を叩きながら、二枚、三枚とシャッターを重ねた。ファインダー越しに見える踊り場は、どこまでも無機質なコンクリートの空間でしかない。私はその光景を見ながら、安堵と、それ以上に深い違和感を覚えていた。あの夜、私が感じたあの絶望的な深淵は、一体どこへ消えてしまったのか。

病院からの帰り道、Tは「写ルンです」を私の手に握らせた。

もともと私が持ち出したものだったし、現像代を出すのも私だと、彼は当然のように笑った。私はそのプラスチックの軽い塊を、制服のポケットの奥深くに押し込んだ。指先に触れる巻き上げダイヤルのギザギザとした感触が、なぜか忌まわしい記憶の棘のように思えて、それ以来、私はそのカメラを机の引き出しの奥に仕舞い込んでしまった。

それから数ヶ月の時が流れた。季節は巡り、父は無事に退院し、あの夜の出来事も、Tと二人で階段を下りた記憶も、日々の喧騒の中に埋没していった。記憶というものは残酷で、あれほど鮮明だった消毒液の匂いや、母の震える背中の質感も、時間の経過とともに水で薄めた絵具のように淡くなっていく。私はいつの間にか、あの無限に続く階段を「単なる錯覚」という箱の中に閉じ込め、封印していたのだ。

ある日曜日の昼下がり、居間のテーブルに一通の黄色い封筒が置かれていた。地元のカメラ屋の名前が印字されたその封筒には、現像を終えたばかりのネガと写真の束が入っていた。姉が自分の修学旅行の記録を現像に出したついでに、引き出しに眠っていたあの「写ルンです」も見つけて、一緒に現像に出したのだという。姉は「あんたの変な写真も混じってたよ」と言い捨てて、自分の友達とのスナップ写真を眺めていた。

私は胸の奥で、小さな、しかし鋭い鼓動が跳ねるのを感じた。忘れていたはずのあの冷たい空気、重たい足音、そして地下一階の暗闇が、瞬時にして茶の間の明るい陽射しを侵食していく。私は震える手で封筒に指をかけ、中身を引き出した。

中からは、姉が修学旅行で訪れた京都の寺社や、バスの中ではしゃぐ同級生たちの姿が次々と現れた。どの写真も平成初期の淡い発色で、陽光に溢れ、命の輝きに満ちていた。私は一枚一枚、丁寧にそれらをめくっていった。あの病院の、あの階段の写真を探して。

しかし、束を最後までめくり終えても、階段の写真は一枚も出てこなかった。Tが自信満々にシャッターを切ったはずの、あの踊り場の景色。病院の無機質な壁と、蛍光灯の光。それらが写っているはずの印画紙は、どこにも見当たらない。

「おかしいな」

私は独り言を漏らしながら、もう一度束を見返した。だが、そこにあるのは姉の日常ばかりだ。私は不審に思い、写真の束の下に重なっていたネガフィルムを手に取った。茶褐色の薄いセルロイド。それを居間の窓からの光に透かしてみる。

フィルムのコマを一つずつ追っていく。修学旅行の集合写真、宿泊先の旅館。その列の終盤、姉の写真が終わった後の数コマに、明らかに質の違う風景が焼き付けられていた。

それは、あの病院の階段だった。

ネガの中で、現実は反転している。明るい場所は黒く、暗い場所は白く透けて見える。その逆転した世界の中で、私は確かにTと見たあの踊り場の風景を捉えた。しかし、なぜか現像された写真にはなっていない。店が「失敗作」と判断してプリントしなかったのか、あるいは、プリントすること自体が不可能だったのか。

私は、その中のひとコマに目が釘付けになった。

Tがシャッターを切ったとき、そこには何もなかったはずだ。ただの空っぽの踊り場。冷たいコンクリートと、埃の溜まった隅っこ。しかし、光に透かしたネガの端には、はっきりと「それ」が写り込んでいた。

踊り場の隅。壁に沿うようにして置かれた、不自然なまでに直線の際立つ、四角い箱のようなもの。

それは、ネガの中で白く浮き上がっていた。白は、現実の世界では「黒」あるいは「深い闇」を意味する。その物体は、そこにあるべきではない異物として、空間を歪ませるように鎮座していた。私は息を止め、目を細めてその輪郭をなぞった。

箱の大きさは、大人が一人、横たわったまま収まる程度の長さがある。

その瞬間、私の背筋に凍りつくような悪寒が走った。母が言ったあの言葉が、頭の中で何度も何度もリフレインする。
「地下一階には、霊安室があるんよ」

あの夜、私と母が迷い込んだ無限の下降。どれだけ降りても辿り着けなかった地下一階。それは、私たちがまだ「生者」であったからこそ、拒絶された場所だったのではないか。そしてTと二人で訪れた際、階段は正常な距離に戻っていた。だが、カメラという機械の冷徹な眼は、物理的な距離など関係なく、あの空間の本質——常にそこに在り続ける「死の待機場所」を、強引に引き寄せてしまったのではないか。

ネガに写ったその箱は、棺のようにも見えた。そして、その蓋の端から、何か黒い布のような、あるいは長い髪のようなものが、床に零れ落ちているように見えてならない。

私は恐怖のあまり、ネガをテーブルに落とした。プラスチックの乾いた音が、静かな居間に不自然に大きく響いた。姉はテレビを見ながら笑っている。父は庭で植木をいじっている。この安らかな日常のすぐ足元に、あの底なしの階段が、今も口を開けて待っているというのか。

今でも、あのネガを焼き増しして確かめる勇気はない。ただ、たまに母とあの夜の話になると、彼女は決まって遠くを見るような目をしてこう言う。
「あのとき、もしそのまま降り続けていたら、私たちはどこまで行ったんだろうね」

私はその問いに答えることができない。ただ、あのネガに写っていた白い四角い輪郭を思い出すだけだ。

あの階段は、下に着かないのではない。
私たちが、「下」という言葉の意味を履き違えていただけなのだ。

本当の「下」に辿り着いたとき、人はもう、二度と階段を上ることはできない。
あの夜、母が「戻ろうか」と言ってくれたからこそ、私は今、こうして生ぬるい日常の中で呼吸をしていられる。

引き出しの奥で、あのネガは今も静かに眠っている。銀塩の粒子の中に、あの地下一階の闇を封じ込めたまま。時折、深夜に水を飲もうと階下へ降りる際、私は自分の足音を数えてしまう。

一、二、三。

もし、四つ目の踊り場が現れたら。
その時、私の視線の先には、あの四角い箱が待っているに違いない。
そしてその中には、三十年前のあの夜、階段を降りることを諦めなかった「私」が、静かに横たわっているのだ。

(了)

[出典:490 :本当にあった怖い名無し:2025/06/10(火) 23:51:48.24ID:0RiS2Pav0]

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