十一月の雨は、山間部では氷のような匂いを孕む。
車のワイパーが払いきれないほどの細かな霧雨が、フロントガラスを叩き続けていた。
私が叔父の工房を訪ねたのは、彼からの執拗な電話があったからだ。
陶芸家であるK叔父は、人里離れた埼玉西部の山奥に古民家を改装した工房を構えている。
普段は無精髭に作務衣姿、言葉少なに土を練るだけの男が、電話口では珍しく上擦った声で言っていた。
「どうしても見てほしいものがある。火を止める瞬間に立ち会ってくれ」
ハンドルを握る私の掌は、暖房をつけているにもかかわらず薄冷たい。
車のヘッドライトが切り裂く闇の先には、濡れた杉林が墓標のように林立している。
叔父はここ数年、スランプに陥っていた。
青磁や天目といった伝統的な釉薬の再現には定評があったが、展覧会での評価は芳しくない。
「魂がない」「技術だけの抜け殻」
ある評論家にそう書かれた記事を、叔父がくしゃくしゃに握りつ潰してゴミ箱へ放り投げるのを、私は見ていた。
工房に到着すると、煙突から揺らめく陽炎が夜空を歪ませているのが見えた。
窯が焚かれている。
引き戸を開けると、土間特有の湿った匂いと、強烈な熱気が同時に押し寄せてきた。
「来たか」
叔父は窯の前にパイプ椅子を置いて座り込んでいた。
頬はげっそりと扱け、眼窩の奥だけが異常な光を放っている。
足元には栄養ドリンクの空き瓶と、吸い殻の山。
不健康な生活が長引いている証拠だった。
「今、一二三〇度だ。あと少しで攻めが終わる」
叔父の声は嗄れていた。
バーナーの轟音が、狭い工房内を支配している。
ゴォォォ、ゴォォォと唸るその音は、巨大な獣の呼吸音にも似て、私の三半規管を不安にさせた。
私は叔父の背中越しに、赤熱する窯の覗き穴を見た。
中は太陽の表面のように白く輝き、並べられた作品がドロドロに溶けた釉薬を纏って耐えている。
「今回は、特別な灰を使ったんだ」
叔父が足元の麻袋を顎でしゃくった。
中国語のスタンプが押された、薄汚れた袋。
読み取れるのは『桃木灰』という文字と、広東省のどこかの地名だけだ。
「桃だ。中国の桃の木。向こうの業者が、古い果樹園を潰した時に出た灰だと言って送ってきた」
叔父は夢遊病者のように呟く。
「桃は魔除けだ。仙人の果実だ。これで焼けば、あのような青白い磁器ではなく、生命の色が出るはずなんだ」
私はその灰を指先で少し摘んでみた。
普通の木灰よりも粒子が細かく、少し粘り気があるように感じる。
そして、微かに甘い、腐った果実のような匂いが鼻をついた。
灰なのに、有機的な匂いが残っていることが奇妙だった。
指先がチリチリと焼けるように痛む。
慌ててジーンズで拭ったが、指紋の溝に入り込んだ灰色の粉はなかなか取れない。
「さあ、止めるぞ」
叔父がガス栓に手を掛けた。
轟音が止む。
静寂が耳鳴りのように押し寄せる。
冷却ファンが回る低い音だけが、深夜の工房に取り残された私たちを包み込んだ。
窯出しは、二日後の早朝に行われた。
十分に冷ます時間を置かねば、急激な温度変化で作品が割れてしまうからだ。
私はその間、工房に泊まり込み、叔父の食事の世話や雑用をこなした。
叔父は待ちきれない様子で、何度も窯の温度計を確認しに行き、その度に舌打ちをして戻ってくる。
彼の苛立ちは、期待と恐怖が入り混じったような、不安定なものだった。
「もし失敗していたら、もう後がない」
そう漏らす叔父の横顔は、土気色で、まるで死人のようだった。
ようやく窯の扉が開かれる時が来た。
レンガを崩すと、まだ温かい空気が漏れ出してくる。
棚板の上に並んでいたのは、数点の茶碗と花器。
叔父が震える手で、最初の一つを取り出した。
朝の光が、その器の表面を照らす。
「……なんだ、これは」
私の口から、思わず声が漏れた。
それは、ピンク色だった。
しかし、桜のような淡いピンクではない。
もっと生々しい、皮膚の下にある血管や、粘膜を思わせる色。
表面には細かい貫入(ひび割れ)が入り、その隙間から赤錆のような色が滲み出している。
美しい、と言うにはあまりに不穏で、醜悪、と言うにはあまりに妖艶だった。
「桃色だ……いや、これは」
叔父もまた、言葉を失っていた。
通常、木灰を釉薬に使うと、成分に含まれる鉄分や微量元素によって、灰色がかった緑や黄色、あるいは黒になることが多い。
桃の木だからといって、桃色になるという道理はない。
それは陶芸の化学(ばけがく)における常識だ。
叔父は以前、私に講釈を垂れたことがある。
『焼き物は化学反応だ。ロマンなどない。すべては酸化と還元の計算式で成り立つ』と。
しかし、目の前にある物体は、その計算式をあざ笑うかのように、ぬらぬらとした光沢を放っている。
叔父は茶碗を高台ごしに持ち上げ、太陽にかざした。
光を透かした器は、まるで生きた肉のように赤く透き通った。
「成功だ」
叔父が掠れた声で言った。
「いや、それ以上のものができた。見てみろ、この発色。辰砂(しんしゃ)でも、銅紅(どうあか)でもない。もっと深い、命の色だ」
私は寒気を感じていた。
その器から、あの灰のときと同じ、甘く腐った匂いが漂ってくる気がしたからだ。
「叔父さん、これ、本当にただの灰なのか?」
私が尋ねると、叔父は我に返ったように私を見た。
そして、急に科学者の顔に戻り、早口でまくし立て始めた。
「おかしい。確かにおかしいんだ。木灰のアルカリ成分だけでこの赤は出ない。赤を出すには酸化銅か、あるいは金(きん)コロイドが必要だ」
叔父は工房の奥からルーペを持ち出し、器の表面を食い入るように観察し始めた。
「それに、この発色の強さ。一二〇〇度以上の還元焼成で、ここまで鮮やかなピンクが残るなんて……」
叔父の額に脂汗が滲んでいる。
歓喜から一転、彼は恐怖に似た疑念に囚われ始めていた。
「おい、あの袋のラベル、もう一度見せてくれ」
私はゴミ箱から麻袋を引っ張り出した。
中国語の文字。
翻訳アプリをかざしてみる。
『果樹園』『特級』『防虫』
最後の単語が表示された瞬間、叔父の顔色が蒼白になった。
「……農薬だ」
叔父が呻くように言った。
「農薬?」
「そうだ。昔の中国、特に地方の果樹園では、安価で強力な農薬が大量に使われていた時期がある。その中には、砒素や水銀、銅、鉛といった重金属が含まれているものが少なくない」
叔父は震える手で茶碗をテーブルに置いた。
「木が、長年にわたって土壌から金属系の農薬を吸い上げ、幹に蓄積していたんだ。それを燃やして灰にした。だから、信じられないほどの高濃度の金属酸化物が、この灰には濃縮されている」
私は息を呑んだ。
つまり、この美しい桃色は、猛毒の結晶だということか。
「一二〇〇度で焼いても、金属は消えない。むしろガラス質の中に封じ込められ、こうして異常な発色を見せている。これは……毒の塊だ」
叔父の推測は論理的だった。
理屈は通っている。
しかし、それだけでは説明がつかない何かが、この部屋には充満していた。
農薬由来の重金属汚染。
そう結論づけてしまえば、この気味の悪さは払拭されるはずだった。
だが、テーブルに置かれた茶碗は、先ほどよりも赤味を増しているように見えた。
まるで、空気に触れて酸化する血液のように。
「捨てましょう」
私は言った。
「危険すぎます。こんなもの、使うことも売ることもできない」
叔父は黙っていた。
その目は、恐怖に怯えながらも、茶碗の妖しい輝きから離れられずにいた。
「待て。本当に農薬か?」
叔父が奇妙なことを口走った。
「農薬なら、もっと無機質な発色になるはずだ。こんなに……温かみのある色は出ない。それに、見てみろ」
叔父が指差した先、茶碗の底、釉薬が溜まっている部分に、黒い斑点が浮かんでいた。
目を凝らすと、それはただの焦げや鉄粉ではない。
何か、文字のような、あるいは人の形のような、歪な模様に見えた。
「戦前の中国陶芸は世界一だった」
叔父が唐突に歴史の話を始めた。
「だが、文化大革命でその伝統は断絶した。多くの名工が吊るし上げられ、殺され、窯は破壊された。技術は数世紀分後退し、今では日韓の後塵を拝している」
「それがどうしたんです」
「この灰が来た場所だ。広東省の奥地。かつての名窯があった場所に近い。そこに、古い果樹園があったという」
叔父の声が低くなる。
「果樹園の木の下には、肥料として『何か』を埋めることがある。特に、飢饉や動乱の時代には、処理に困った『有機物』を……」
窓の外で、再び雨が激しくなり始めた。
屋根を叩く雨音が、パタパタパタと、無数の足音のように聞こえる。
私は背筋が総毛立つ感覚を覚えた。
農薬説は怖い。
だが、叔父が今、妄想し始めた物語は、もっと生理的な嫌悪感を呼び起こす。
「叔父さん、やめてくれ。考えすぎだ。ただの汚染された灰だ。産業廃棄物みたいなもんだよ」
私は強引に話を戻そうとした。
「ああ、そうだな。そうに違いない」
叔父は力なく笑った。
「だが、確かめてみる必要がある」
「どうやって?」
「使ってみるんだ」
止める間もなく、叔父は茶碗を手に取り、傍らにあったポットの湯を注いだ。
湯気が立ち上る。
その湯気までもが、ほんのりとピンク色に染まっているように見えたのは、私の目の錯覚だったろうか。
器が熱を帯びると、表面の模様がゆらりと動いた気がした。
叔父は、その毒かもしれない、あるいはもっと忌まわしい何かの成分が含まれた湯を、口元へと運んだ。
叔父が茶碗に口をつけた瞬間、時間が停滞したように感じた。
彼は液体を含んだまま、数秒間、動きを止めた。 喉仏が上下し、ごくり、という嚥下音が静まり返った工房に響く。 私は叔父が血を吐いて倒れるのではないかと身構えた。 しかし、彼はゆっくりと茶碗を置き、舌なめずりをしただけだった。 「……甘い」 叔父は夢現のような声で呟いた。
「そして、痺れる。舌の先から喉の奥にかけて、無数の蟻が這い回るような感覚だ。鉄の味。電池を舐めた時のような電気的な刺激。間違いなく、金属だ」 叔父の瞳孔は開ききっていた。 恐怖よりも、奇妙な高揚感が勝っているように見えた。 「叔父さん、もういいだろう。証明されたんだ。それは毒だ。すぐに吐き出して、病院へ行こう」 私が腕を掴んで引っ張り上げようとすると、叔父は枯れ木のような腕からは想像もつかない怪力で私を振り払った。
「帰れ」 叔父は私を見ずに言った。その視線は、妖しく輝く桃色の茶碗に釘付けになっていた。 「お前には分からん。毒だと? それがどうした。この赤が出るなら、俺は寿命を削ってでも焼く。これは、俺が一生をかけて探し求めていた『緋色』なんだ」 狂気だった。 芸術家の業と言えば聞こえはいいが、目の前にいるのは、死の淵にある魅入られた男だった。 「中国の果樹園の話をしたな」 叔父は独り言のように続けた。 「農薬漬けの土。あるいは死体を吸った根。
どちらでもいい。その土地の『怨念』ごとかき集めなければ、この色は出ないのだ。綺麗なだけの化学物質では、この生々しさは作れない」 叔父は立ち上がり、残りの麻袋を引きずってロクロの前に座った。 「邪魔だ。帰れ」 再び繰り返された拒絶の言葉に、私は為す術もなく工房を後にした。 背後で、再びバーナーが点火される音が聞こえた。 ゴォォォ、という轟音が、雨音を掻き消していく。 車のバックミラーに映る工房の煙突からは、以前よりも濃く、黒ずんだ煙が吐き出されていた。 その煙は、雨雲に溶け込みながら、里の方へと流れていくように見えた。
それから一ヶ月、私は叔父からの連絡を絶った。
怖かったのだ。 あの夜の、叔父の異様な眼光と、茶碗から漂っていた腐臭が、夢にまで出てきた。 しかし、風の噂で、叔父の新作が一部のマニアの間で爆発的な高値を呼んでいることは知っていた。 『桃源郷の赤』 そう名付けられたシリーズは、見る者を不安にさせるほどの美しさで、ある種の呪物として取引されているという。 十二月の半ば、警察から電話があった。
叔父が工房で倒れているのが発見されたのだ。 発見者は画商だった。新作の催促に来て、冷え切った窯の前で事切れている叔父を見つけたらしい。 死因は多臓器不全。 しかし、解剖の結果はもっと凄惨なものだった。 血液からは致死量を遥かに超える砒素、水銀、カドミウムが検出された。 医師は首を傾げていた。 「短期間でこれほどの重金属を摂取するなんて、食べていたとしか思えません。それに……」 医師は言葉を濁し、私の顔色を窺うようにして言った。
「肺の状態が酷い。肺胞の壁が繊維化し、その隙間に、ピンク色の微細な粉末がびっしりと癒着していました。呼吸をするたびに、ガラスの破片を吸い込むような苦しみだったはずです」
私は遺品整理のために、再びあの山奥の工房を訪れた。 警察による現場検証は終わっていたが、部屋にはまだ異臭が染み付いていた。 酸っぱいような、焦げたような、そしてあの甘ったるい桃の匂い。 工房の棚には、例の『桃源郷』シリーズが数点、残されていた。 確かに美しい。 夕陽を浴びて輝くその器は、まるで自ら発光しているかのように赤く、艶かしい。 私はその一つを手に取り、裏返してみた。 高台の脇に、叔父の銘が彫られている。 その文字は乱れ、最後の方は線が途切れていた。
震える手で彫ったのだろう。 ふと、足元の床に散らばる陶片の中に、見覚えのある麻袋が落ちているのに気づいた。 『桃木灰』の袋だ。 中身は空っぽだった。 叔父は、あの大量の灰をすべて使い切ったのだ。 そして、袋の裏側に、走り書きのようなメモが貼り付けられていた。 叔父の筆跡だ。
『灰が足りない。色が薄くなってきた。桃の木はもうない』 『代用品を見つけた』 『同じだ。理屈は同じだ。命を吸ったものなら、赤くなる』 背筋が凍りついた。 代用品? 私は視線を部屋の中に彷徨わせた。 部屋の隅に、うず高く積まれた段ボール箱があった。 中には、叔父が服用していた大量の薬の空き殻、そして……。 私の視線は、作業台の下にある業務用ポリバケツに吸い寄せられた。
蓋が少しずれている。 そこから、強烈な腐臭と、甘い匂いが漏れ出している。 私は恐る恐る、蓋を開けた。 中に入っていたのは、灰ではなかった。 髪の毛の束。爪。そして、白い骨の欠片のようなもの。 それらが、砕かれ、すり潰され、釉薬のバケツの中に混ぜ込まれていた。
「……戦後の中国陶芸は」 叔父の声が蘇る。 『文化大革命で、多くの陶芸家が粛清された』 『名品が破壊され、技術は後退した』 叔父は言っていた。 あの灰には、農薬だけでなく、埋められた「有機物」の成分が含まれていると。 叔父はそれを再現しようとしたのか。 自らの爪を、髪を、あるいは……自身の体を削って? いや、それだけではない。 ポリバケツの底に見えたのは、動物の骨だけではなかった。 近所の野山で捕まえたのだろうか、小さな頭蓋骨のようなものが、ドロドロの釉薬の中に沈んでいた。
私は吐き気を堪え、その場を逃げ出した。 叔父は、農薬による汚染(ケミカル)を、呪術的な儀式(オカルト)で補完しようとしていたのだ。 「毒」と「死」を掛け合わせることで、あの忌まわしいピンク色を生み出していた。 叔父の体から検出された毒素は、灰の粉塵を吸い込んだからだけではない。 叔父自身が、その毒のサイクルの一部となり、作品と同化しようとしていた証拠だった。
あれから数年が経った。
叔父の作品は、遺作として更なる高値をつけ、どこかの収集家の元へ散っていった。 私は陶芸とは無縁の生活を送っている。 だが、スーパーマーケットの青果売り場に行くたびに、足が止まるようになった。 綺麗に並べられた、輸入物の果物たち。 特に、中国産の桃。 その滑らかな、薄紅色の肌。 以前なら、ただ「美味しそう」と感じたその色が、今では全く別のものに見える。 あの工房で見た、焼成された毒の色。 あるいは、叔父の肺にこびりついていた粉末の色。
私はふと思うのだ。 あの果樹園で、桃の木は何を吸い上げて育ったのか。 大量の農薬。 その土地に眠る、名もなき人々の骨。 木々はそれらを根から貪欲に吸収し、幹に蓄え、そして実を結ぶ。 その実を、私たちは食べる。 甘い、甘い果肉として。 叔父の陶器は、高温で焼くことでその「本性」を可視化させたに過ぎないのではないか。 私たちは普段、見えないだけで、毎日「それ」を食べているのではないか。
先日、近所のスーパーで特売の桃を買った客が、腹痛を訴えて救急搬送されたというニュースを見た。 原因は不明だが、患者は「桃から鉄の味がした」と言っていたらしい。 私はそのニュースを聞いて、思わず自分の指先を見た。 叔父の工房で灰を触ったあの日から、指先の皮膚が微かに、本当に微かにだが、ピンク色に変色している気がしてならないのだ。
洗っても、削っても落ちない。 まるで、釉薬が焼き付いたように。 私の体の中にも、すでにあの灰が、あの毒が、あの死者たちが、入り込んでいるのかもしれない。 鏡を見ると、顔色が妙にいい。 血色が良い、と言われるようになった。 だが私には分かる。
これは健康な赤ではない。 桃の木の根が吸い上げた、あの禍々しい「桃色」なのだと。
[出典:517 :あなたのうしろに名無しさんが・・・ :03/08/07 09:26]