あんまり怖くも面白くもない。
それは自分でもわかってるんだけど、今夜は寝つけなくて、ふと思い出してしまった。
……だから、書く。
仕事は、いわゆるIT土方ってやつで、古びたマンションで一人暮らし。
現場の熱気とプレッシャーを背中に浴びながら、毎晩キーボードを叩く。三日間ぶっ通しで作業なんて、ザラ。
五日寝なければ幻覚が見えるって話があるけど、経験上、三日で耳がざわつき始め、四日で視界の端に人影が立つ。五日目には、それが何を言ってるか、はっきりわかるようになる。
それが現実なのか、ただの夢なのか、もうどうでもよくなってくる。
多分、そういう生活だった。
あの頃、とある保険代理店向けのシステムが盛大にトラブって、炎上していた。
消えないバグ、デグレード、仕様変更、クライアントの横槍。地獄の盆踊り。
寝ないまま、作業場で倒れそうになりながら帰宅して、気絶するようにまた机に向かう。
その生活の中で、最初に“アレ”を見たのは、たぶん五日目だったと思う。
部屋の天井の角、ちょうど押し入れの上あたり。
そこを、何かがズル……ズル……と這っていくのが見えた。
最初は蜘蛛だと思った。でかいやつ。脚の長い、黒くて鈍い動きをするやつ。
ただ、何度か目撃するうちに、それが蜘蛛ではないことに気づいた。
丸くて、絡まったような黒い毛の塊。……動いている。
直視できた夜、やっとはっきり見えた。
ヅラだった。
……そう、カツラ。冗談じゃなく、本気で、ズレたヅラが這っていた。
そのヅラがどんなものだったかというと、妙に見覚えのある形だった。
日本人形のような、ぴったり整った黒髪のおかっぱ。
すぐに思い当たるものがあった。
昔、一緒に仕事していた後輩に、久美って子がいた。
口数は少なかったけど、やたら几帳面で、誰よりも俺のスケジュールを把握していた。
俺が出張から戻ると、夜中でも駅まで迎えに来て、作業データを黙って渡してくれた。
その子が、いつのまにか退職していた。
理由は聞かされていない。出張から戻ったら、いなくなっていた。
きれいに消えたみたいに、席も、メールも、何も残ってなかった。
それ以来、あのヅラを見るたび、俺は口にしてた。
「久美ー、また出てきたんか、もうやめぇや」
軽く呼びかけるように。冗談半分、幻覚相手の独り言。
徹夜続きのテンパった頭では、それが妥当な反応だった。
深夜の静まり返った部屋の中、蛍光灯の下で、ズル……ズル……と移動するヅラ。
一度、コードに引っかかってクルクルと回転しながらもがいていたのを見たときは、さすがに吹き出しそうになった。
ただの幻覚だと思っていたし、そう信じていたい気持ちもあった。
俺の脳が壊れているだけ。そういうことにしておきたかった。
でも、ある日。
あの人が来た日だけは、少しだけ空気が違った。
定期的に訪問してくる、エホバの証人の中年男性。
ちょっと変わった人で、俺のような厄介な質問にも一つひとつ丁寧に答えてくれた。
自分は聖書の研究が趣味で、ヘブライ語やギリシャ語の写本を読み比べたりしてる。原理主義とは相容れないところがあるけど、彼はそれを理解して、なぜか面白がってくれていた。
あの日も、いつも通り三時間くらい、二人で文献や翻訳について話していた。
そのときだった。
天井の角に、ズルッ……と黒い影。
見慣れたヅラが、ゆっくりと這い出してきた。
条件反射だった。
「久美、こら、出てくんなって……」
言った瞬間、彼が動きを止めた。
俺の視線の先を、彼も見ていた。
顔色がすっと青くなり、目を細めて、かすかに首を傾けた。
「……今のは?」
彼がそう言ったとき、ようやく自分の中の何かがズレた音を立てた。
今のは……?
まさか、見えたのか?
「ああ……え? 見えたん? アレ、俺はずっと幻覚やと思ってた……」
彼は答えなかった。口を閉じたまま、荷物をまとめると、そそくさと帰っていった。
それきり、彼は二度と来なくなった。
そして、それ以来、ズラも出なくなった。
気づいたら、幻覚も、耳鳴りも、あの這う気配も、消えていた。
誰にも話していないけど、ふと、思うことがある。
俺の目にしか見えないものだったはずのアレが、他人の目にも映った瞬間、いったい何が起きたのか。
たとえば、久美がずっと俺のそばにいて、何かを訴えていたのだとしたら。
たとえば、誰かに気づいてもらうことを、ずっと待っていたのだとしたら。
あの日、それが達成されたことで、もう必要なくなったとしたら。
……俺は、なにを見ていたのか。
なにと暮らしていたのか。
そしてなにを、失ったのか。
もう、それを確かめる術は、どこにもない。
[出典:723 :本当にあった怖い名無し:2020/07/10(金) 04:36:47.62 ID:58CFApWZ0.net]