これは、ある学生が体験した話を元にしている。
九州の心霊スポットとして知られる「犬鳴峠」を舞台にした出来事だ。
学校帰りの薄暗い教室。夕暮れが窓から差し込む中、彼と武田はいつものように取り留めのない雑談をしていた。部活には入らず、放課後の空き時間を持て余していた二人にとって、怖い話は手軽な娯楽だった。ときには女子が混じり、きゃあきゃあと騒ぐのを横目に、どこか得意げに怪談を披露する武田を彼は心の中で笑っていた。
受験を控えた最後の夏休みが近づくころ、二人の話題は「犬鳴峠」に向かっていった。九州では知らぬ者のない心霊スポットで、深夜のトンネルでは何かが必ず起きると言われている場所だ。武田が提案した「夏の肝試し」の計画に、彼は心の中で怯えながらも、拒否することができなかった。
当日、朝から降り続いていた雨は夕方になっても止む気配がなかった。彼は何度も中止を提案しようと電話を手に取ったが、武田のあの馬鹿にしたような笑顔が頭をよぎり、結局言い出せなかった。迎えた夕刻、重い気持ちで現地の駅に向かう。小さな田舎の無人駅で、雨に濡れた木造の待合室はじめじめと湿っていた。
武田は遅れてやってきた。いつも通りの軽い調子だったが、その目にはどこか張り詰めたものがあった。二人は峠を目指して歩き出した。街灯もない山道。鉄柵を越え、薄暗い森を抜けると、目の前に問題のトンネルが現れた。
闇を吸い込むように真っ黒なその入口に、彼らは一瞬立ちすくんだ。昼間なら見えるはずの出口はどこにもなく、ただ暗闇が無限に続いているように見えた。
「お前、行けよ」と、武田が震える声で彼を促した。
「無理だよ、こんなの……」
そう言いながらも、彼は武田に背中を押され、足を一歩踏み出してしまった。その瞬間、空気が変わった。冷たく湿った風が、背中に張り付くように流れていく。手にした懐中電灯の光は、トンネルの闇に呑まれるように消えていった。
「早く行けよ!」武田が叫ぶように言う。
だが、その声には奇妙な響きがあった。振り返ると、武田の顔が何かに歪められている。恐怖か、あるいは別の何かか。足元から、冷たい何かが彼を引き込もうとしていた。
「お前、ここで待ってたって言ったよな?」彼は声を絞り出した。
「……ああ、待ってたよ」武田が答える。
「でも……ここに来る途中、鉄柵に鍵がかかってたはずだ。それを壊したのは俺だ……」
武田は無言だった。
「お前、本当に……待ってたのか?」
その瞬間、武田の顔が歪み、笑った。手が彼の肩を掴んでいた。それは武田の手ではなかった。冷たい、硬い、まるで土に埋もれた何かが蘇ったような感触だった。
「早く死のうよ」
耳元で囁く声に、彼は絶叫し、目の前の武田を振り払おうとした。だが、振り返るとそこには誰もいなかった。
彼はその後、山菜採りの地元住民に発見された。山道に倒れていたという。ひどい熱を出し、意識が戻ったのは数日後だった。
武田について聞くと、彼は当日、怖くなって自宅から出ていなかったという。電話の記録も、その証言を裏付けていた。
犬鳴峠で見た「武田」は、一体何だったのか。トンネルで囁かれた言葉の意味を、彼は今でも考えることができないという。ただ一つだけ言えるのは、それ以来、二度と犬鳴峠には近づかないということだ。
(了)